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漂う絵本
「俺、絵本しか読まないんだ」
私が毎晩のように本を読んでいると、彼は隣でこう言っていた。
財布、携帯。出会った頃、彼はできるだけ荷物を持ちたくない性分であったが、いつしかそれに似つかないほど大きなカバンを持つようになった。小麦色で中身の重みによって湾曲したカバンは、マドレーヌのよう。
彼はそのカバンに、財布、携帯それに絵本を2冊入れていた。
「いつも思っていたんだけど、何で絵本1冊じゃなくて2冊持ち歩いているの?」
「こっちの絵本は一人で読む用。こっちは誰かと一緒に読む時の絵本。」
「へ〜そうなんだ。」
「一人用は読み終えたら二人用になって、二人用だったものは本棚に戻すんだ。」
「絵本はすぐ読み終わっちゃうから、すぐ入れ替わっちゃうね。」
彼は少し俯いてから「終わらないよ」と言葉が落ちた。この言葉に焦点が合わないと、風に攫われて分からなくなるほどに小さい声。
垂れた前髪は、柳のように健かで、隙間から見える肌色は言葉より彼を知ることができた。
彼は突然去った。別れた、消えた、とんだ、いなくなった。彼からの伝言は一つもなかったが、去ったというのが1番正しい表現だと心の髄で確かめた。
去る前日彼は「青森県立美術館に行こう」と前兆なく誘ってきた。
私が「奈良美智の?」と聞くと、「違うよ漂いたいんだ」と俯いていた。
「ゆっくりする」や「落ち着く」ことを「漂う」と言う彼はどこかで漂っているに違いない。
急にいなくなった部屋は、私よりも彼がいない生活に慣れるのが早い。彼が蜃気楼のような幻だったのではと疑うが、本棚に埋まった絵本が幻ではないと強調する。
「絵本はだいたいが何の問題も解決してないんだ」
「じゃあ子供が読んじゃあまり良くないんじゃないの?」
「違うよ。君のそういうところだけは嫌い。」
彼から濁った言葉を聞いたのは、この一回しかない。彼と向かい合って分かったつもりでいたが、俯いた柳のような前髪から覗く肌色が、向き合うよりも膨大な彼の破片を集めることができた。
「だから絵本が好きなんだね」
今はこの言葉が嘘になる。嘘から繋ぐ二人は何の解決しない上、どこにも行けずここにいる。
だから彼は去った。私はここにいる。
絵本と私の小説が溶け合ったこの部屋に。
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