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揺蕩

取るに足りない日常のある日を、何かに触発されて思い出す時がある。それは例えば、パターソンを鑑賞した時だとか、すべて忘れてしまうからを寝る前に読んだ時だとか、朝にカネコアヤノを聞きながら駅まで歩く時だとか。その日常のある日は、ひょんなことから絢爛とした記憶となって私を巡る。

朝、カーテンを開けて、それから窓を開けると澄んだ鳥の声が網戸を越して私に届く。鳩の鳴き声は信号のように周期的なのに突然終わって、その残響が建物で見えない地平線の果まで届いたように思う朝。コーヒーは飲めないからマーマレードを溶かしてそれを飲む。

お昼は昨日残りの唐揚げがあって、それをあんかけにしてご飯の上へ躊躇うことなくぶちまける。日光と室内灯、混じり合ってあんかけがそれを反射させ、私の瞳孔を射止める。少しだけ外へ出ては、目的を忘れてしまって雨宿りしたい喫茶店を見つけ、本来の目的の空白が埋まったと帰宅する。

うたた寝して夕方になって、馴染みのないワイドショーは多様性をテーマに職場の髪型自由化の特集が放送されていて「髪色を派手に染める方は、元気よく丁寧な接客をしましょう」と規定が紹介されて、すぐにテレビを消した。
変わりといっては失礼だが、内容はとうに忘れてしまった映画のサウンドトラックをかけ、映画に適した沖融たる音楽だと嘘と本当どちらでもないことを短絡的に思い、その波々に合わせて踊る。波が私に溶けて、体を滑らかに踊らせるたびに、日が沈む。

朝のうちから忍び寄っていた夜と、気づけば邂逅していた。お酒は飲めないからワイングラスに緑茶を注ぐ。和室じゃない、そんなざわめきがいつもグラスの底から漏れ聞こえるような錯覚が、また沈殿する。家々が今日も夜を受容し、部屋の明かりを沈める頃、私はまだ不安の潮騒に漂い眠らない。

こうある日を思い出してみても、それはある日では全く無い。すべてのことの時系列はバラバラで、どれが前で後ろかなど私にさえ分からない。いってしまえばバラバラだと思っている認識さえ正確ではないのかもしれない。

私の一番遠い記憶は波打ち際だった。年が同じぐらいの男の子と一緒になって魚や生き物、漂流物を掴まえていた。記憶といっても思い起こされるのは一枚の写真に近く、それは掴まえたカニをカメラに向かって笑って見せている自分だった。顎を覆うほどの瘡蓋が痛々しく、前歯は上と下、一本ずつチグハグに抜けていて、私の後ろにその時に初めてあった少年がいる。顎に怪我を負っているとの、歯が抜けているのと、その少年と海にいること。多分これも同じ時期ではない。海で少年といた頃の私が、それぐらいの歳のときに、歯が抜けていたり、顎に大げさな傷を作っていただけで、そしてその記憶も写真の一枚に過ぎない。

結局のところ、自分の視点ではなく他者の視点による記憶はわたしのものではないはずだ。
記憶など曖昧で少しの事実が私の希望によって歪んだ創造でしかない。私のためだけの解釈になっている。

こんなにも不安定な記憶ばかりで生活している。私が行動や思考で頼りにしている記憶はこんなにも脆い。私から見て上手く生活できている人は、確固とした記憶に住んでいるのだろうか。それか私が知らないだけで、SNSでそれらを「30秒で改善!魔法の使い方」みたいな投稿が拡散され実行し、上手くいっているのだろうか。祖母が昔魔法を飲んだことがあると、私がマジックの種を問うとそう答えたのと同じように。この記憶さえ、今私は自分の正しい記憶なのか信用できずにいる。

今ここまで書いて、これから書く(読むのが)未来、そして今、記したような過去、こう並べてみると全ては区切られていないのではないかと思う。過去、今、未来。すべてがここにある。そう思うと、急に不安定な記憶というものがあまり重要ではないように思える。今も過去、今も未来、過去も未来。私ははじめから大事なものを持っていたし、万全なのだろうと。「すべて忘れてしまうから、それだけ」。不安定な記憶があるから私があるのは間違いなくて、その記憶は、覚えていない記憶も、何かと邂逅して想起したとき、今、未来の自分はどう思って何をするのか、楽しみである。昇華されるときもあれば奈落で集合する日もあるかもしれない。私にとって魔法はなかった。
しかし、魔法みたいな記憶はここにある。あるいは呪詛でもある。

私はそのまま人と邂逅する。そこにあるのは宇宙、というと直接的になってしまう、なんと言おう、ようやく夜を受容できる気配がする、ひとまず今日は温かくして布団に潜るとする。

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