1.突然の始まり。

私の母は2023年3月に51歳で
【筋萎縮側索硬化症】別名ALSと診断された。
病気の始まりから全てを綴ります。

ALSとは、全身の筋肉がなくなっていく病気。

2022年3月
コロナワクチン3回目を打った頃より
頸部(首)に違和感とこわばるような痛みや
それとは別の激しい痛みを感じ始めた。


2022年7月
4回目のワクチンを接種後より手に違和感と
激しい疲労感が続く為、整形外科を受診。
診察後も回復すること無かったので
同年11月、他の病院の脳神経内科を紹介される。

この頃、母は五十肩かな?と思っていました。



2022年12月
紹介された脳神経内科を受診。
ALS (筋萎縮性側索硬化症)の疑いで
詳細な検査ができる大学病院を紹介される。



2023年1月
紹介された大学病院を予約。

予約日の2日前に、
母が息苦しさで救急車を呼んだ。
すごく寒い日で、夜中に母の家へ駆けつけた。

酸素濃度が通常だったから
病院に搬送してもらえなくて
私が車に乗せて救急外来に駆け込んだ。

この日は、
コーヒーもすぐ冷めるほど寒かったんだ。

救急外来での診察は
『数値に異常なし、翌日の専門医がいる時間に再度きてください。今日は帰ってください』
といわれてしまった。

この時診察室でみた母の身体は
ガリガリに痩せていて流石に私も
『こんなに痩せていておかしいじゃないですか』って医師に問いかけたけど、無意味だった。

後日わかったのが母は40キロだったのに
31キロまで痩せてしまっていた。

『手がうまく動かなくて自炊が難しくて
首が動かなくて食べることが難しかった。』

『疲労感も凄くて、だから食べれなかった』

と母はいっていた。

思い返せば茶碗が持てなくて
取手のついた茶碗にしていた。

箸が使えないからフォークで食べたりしていた。

私も、五十肩って大変なんだな。
としか思っていなかったけど、
そんなわけないんだよね。



2023年1月
この頃本人が言っていたのは、
1回目のワクチンを打った後に現れた
背中の激しい痛みと同じものを繰り返し
感じるようになった。

その痛みとは別で、胸部にも激しい痛み
(息が出来なくなるような苦しさ)を同じように
繰り返し感じるようになった。


そして翌日に大学病院の脳神経内科を受診。
そして、緊急入院になった。

私は、やっと母が安心出来る場所に
いれることに安堵した。

ALSの疑い、またはギランバレー症候群などの
可能性だったから私は病気を沢山調べた。

簡単に説明すると
●ALS
遺伝性以外は、治療薬がない。

●ギランバレー
投薬などで改善が見込める

この二つならどうか、
ギランバレーであってほしいと願った。

母にも、きっとギランバレーじゃない?
なんて言って大丈夫大丈夫と言い聞かせた。

ひとまず、入院中の治療方針は
ALSとギランバレーの検査をしている間
万が一ギランバレーだった場合は
すぐ投薬治療する必要があるので
検査結果が出るまでは
ギランバレーの投薬治療を行うことに。

ギランバレーの投薬治療は
●免疫グロブリン静注療法(IVIG)
この治療法は免疫グロブリンを5日間連日
点滴静注する治療法で、現在GBSに対して
第一選択される治療法。

この点滴をして母の
首や腕の痛み、動かない等の症状は
劇的に改善されて手の違和感は
若干のこっているけど首の痛み、こわばりが
無くなったと喜んでいた。

ALSだったらこの投薬は効果がないそうで
私たち親子は、ギランバレーだね。と
薬でうまく付き合える病気だと確信した。

そんな中一本の電話が鳴った。
大学病院からの着信だった。

『お母様の病状について、
大切なお話しがあるので病院にきてください』

医師からそういわれて病院にいった。
小さな部屋に母と二人通された。

ガリガリに痩せて力ない母は車椅子に座って。
私は、その隣に座った。

医師が入ってきて、検査の結果や
病状の説明を一通りした後に

『以上の検査結果から心臓にも異常はなく
全身に癌もありません。ギランバレーでも
ありませんでした。ALSの可能性が非常に
高いです。でも、ギランバレーの点滴の効果が
出ていることも考えると更に精密な検査を
したいと考えております。他の研究機関に
検査を依頼してさらに精密な結果をだします。

だけど、ALSで間違いないと思います。
余命は1年6ヶ月です。』


、、、?

ん?

私たちは固まった。
母を見たら俯いて机を見つめていた。

私は、もう一度きいた。
ちょっと泣いた。一瞬ないた。

でも泣きたいのは母だから
ちゃんとしなくちゃと思った。

本題はここからだった。

ALS(筋萎縮性側索硬化症)であることが
診断されたわけなんだけど、

母の2023年1月の状態は
ALSがかなり進行していて手や首、
呼吸をする筋肉に影響がでていた。

肺を動かすために必要な筋肉
呼吸筋の年齢は、85歳だった。

85歳が仕事して沢山歩いて家事して。
こんな状態で生きていたんだって。

そりゃ苦しいわ。納得。

医師から
『ALSの場合、いずれは食べ物を
飲み込めなくなり、呼吸をすることも
できなくなるので延命措置の為に
胃にチューブで食事をおくるための穴
胃ろうをする手術と、人工呼吸呼吸器を
つけるため喉に穴を開ける手術。
この二つの手術を受けられるのは
今が最後になります。』

『簡単にいうと、身体が手術に
耐えられるのが今が最後の段階です。』

『延命治療をするなら、この入院中に
手術になるので、一週間で決めてください』

といわれた。


ずっと俯いて黙っていた母が
顔おあげてはっきりとした声で言った。

『延命治療はしません』

医師が説得したけど変わらなかった。

私は子供としての意見は
せめて胃ろうだけはしてほしかった。

私は母に言った。
『呼吸器はまだわかる。
でも、お腹が空いたら身体が頑張れないよ?
お腹空いてるのに食べられないのはつらいよ。
穴あけよ?』

でも母は秒で言い返してきた。
『絶対嫌。絶対しない。』
『そんな状態で生きていても仕方がない。』
『延命するくらないならさっさと死にたい。』

そういう事はもうわかっていた。
5歳から母と二人で生きてきた。
そういう性格なのはよく知っている。

それと同時に私も子供がいるからわかる。
私が同じ状況だったら、何もできないのに
管に繋がれてただ生きるのは絶対に嫌。
治らないなら早く死ぬ事を望むと思う。

なにより、そんな状態が長く続いたら
子供に迷惑がかかるのは耐えられない。

そして病気の特性で、
この病気は最後にしゃべる事も出なくなる。

なおさら耐えられない。

脳は健康で沢山考えたり思う事ができるのに
それを表現することができない状態になる。

この病気の、【閉じ込め症候群】と
いわれる状態がずっと続く。

だから私は母が出した答えを
受け入れる事にした。

私は医師に言った。
『先生、母が望む通りにします。
延命措置、延命治療はしません。』

私たちはこの決断にした。
どんなに苦しんでいてもどんなに辛くても
この決断をしたからには母が決断を変えない
限り私は、心を鬼にしてでも貫き通すと決めた。

母が決めた事を応援する。
私の愛のかたちは、いばらの道だと
わかっていてもその人が歩くと決めたなら
歩けるように応援する。

だって、それが母が決めた幸せの選択だから。
母の人生であって私の人生ではないから。


医師がいろいろな書類を持ってきた。
『延命治療をしない事にサインしてください。
する治療としない治療にチェックを。』

『この本はエンディングノートです。
この中に、してほしい治療と
しない治療を書いてどんなふうな最期を
送りたいかを書いておいてください。
万が一倒れた時にノートがあれば
望まない治療をされずにすみます。』

この1時間でこんな書類まで渡された。
ペンで文字を書くことも難しいのに
母は震えるような文字で書いていた。

変わろうか?と言っても
自分で書く。と意地になった子供みたいに。

全ての説明がおわって母は病室に戻る。
車椅子に乗った母は遠くを見つめて
呆然としたまま戻っていった。

私はその後ろ姿を見ることしかできなかった。

私は病院を後にした。
子供を幼稚園まで迎えにいかなくちゃ。
だけど、どんな顔で子供に会えばいいか。
運転中涙が止まらなくて。
あんまり泣かない人なんだけどね。
辛かったな。この日。

2023年2月27日
母は余命宣告された。

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