6.介護と公的制度。

2023年10月

もう、寝たきり状態の母。
風呂もトイレも食事も介助が必要だった。

どうにもならなくて福祉のサービスを
頼れないか考えるようになった。

そう考えた時、介護認定申請を出した。
承認に3か月かかるといわれた。

絶望した。
とにかくすぐに手続きをした。
役所の人も状況の悪さに、急いでくれて
親身になってくれたと思う。


介護認定申請をだす
     ↓
役所が我が家へ実態調査にくる
     ↓
役所が医師に書面をおくる
     ↓
医師が診断書をかいて送り返す
     ↓
介護認定審査会の判定会にかけられる
     ↓
ようやく可否が私たちへ届く。

この流れが3か月かかるそう。


なぜ、もっと早くに出していなかったのか。
そう思う人もいるでしょう。

8月の初めまでは自分であるき
食事もできて経過は良好だった。
その時に申請をだしたら
要件を満たさず、承認されない。

そんなわけで、申請が承認されるのを
ただまつことしかできない。

この期間の介護が本当に地獄だった。
母はまだ52歳。

娘の私に、お風呂に入れてもらうのが
屈辱と思う人だった。

気難しくて、プライドが高い母。

母の背中はガリガリに痩せて
背骨やあばらの骨が浮き出て
レントゲン写真でもみているようだった。

全身の痛み、力が入らない身体。
体を起こしているだけでも苦しがり
今にも死んでしまいそうな姿。

なんとかお風呂の椅子に座らせようと
したけど、力が入らなくて支えていないと
バタンとモノのように倒れてしまう。

全身を支えながら、痛みに苦しむ母のシャワーが少しでも早く終わるように...

手が二つしかない事が腹立たしいくらい
本当に大変だった。

頭を流す時は体を支えながら頭を支えなければ。
でも母にはその態勢をすることも難しかった。

体を洗ってあげるのも、何をするにも
介護が初めてな私はできない事だらけだった。

体も精神も限界だった母は常に情緒不安定で
きつい言葉しか発さなくなっていた。

それに加えて私の不慣れな介護と
屈辱感で私に対する態度もキツイものだった。

『一生懸命やっても報われないな。』

『あぁ、小さい頃もこんな風に当たられてたっけ。』

『八つ当たりも、甘えているって事かな』

『私は何のために生きていたんだっけ』

そんな事を思いながら
終わりのない長くて暗いトンネルを
ゆっくりゆっくり歩いているようだった。


そして何度も病院にいった。
何度目かの訴えでようやく検査入院を
させてもらえることになった。



【2024年11月】

母は再び入院することになった。
私はやっと解放されたと思ってしまった。

そして母は、検査の結果
寝たきりの時間が長かったから
足に血栓ができてしまっていた。

この血栓は、痛みとは関係ないものだった。

しかし、早急に治療しなければならず
血栓を溶かす薬を服薬した。


検査も血栓以外には問題がなかった。

母の入院しているところは急性期病院。
治療が落ち着いたら退院しなければならない。

もう、家で過ごすことは母も望んでいなかった。

『出来ることなら、ずっと病院にいたい』

そう母は言っていた。
私に迷惑をかけたくないのと
病院という安心感でそう言っていた。

ソーシャルワーカーさんとお話して
次の転院先が決まった。

次はリハビリ期の病院へ転院。
ここは3か月が期限だった。

このリハビリ病院で回復の見込みがなければ
終末期病院へ転院することに。

文字の通り、死の間際、死ぬまで過ごす場所。

これから私たちはどうなっていくのだろう。
その不安と、介護から解放された事実に
むず痒さを感じながら新しい生活が
また始まったていった。

次回は、リハビリ病院編になります。

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