8.終末期病院編
ここだ。ここに転院したい。と
母と私の意思は固まり、病院の担当者さんと
面談する事になった。
担当者を田中さん(仮名)としよう。
田中さん
『ここの病院の患者さんは
高齢者の方がほとんどです。
そして、高度な治療はできません。』
私
『はい。全て承知しています。
母は、人工呼吸器も胃ろうも希望していません。
延命治療をしません。しかし、できる限りで
痛み止めや点滴、リハビリを望みます』
田中さん
『ご家族はどう思われていますか?』
私
『母がそう望むなら叶えてあげたい。
自分も子供を持つ母親として考えた時
私も同じ決断をします。だから否定はしない。
そう決めて後悔はありません』
田中さん
『私は、あなたの気丈に振る舞う姿が心配になりました。まだお若く見えますが..』
私
『母は見ての通りまだ52歳で若いです。
20歳で私を産んでたった一人で再婚もせずに
32年間生きてきたんです。どんな苦労も一緒に乗り越えてきたので母のことはよくわかります。母が決めたなら応援する事が愛だと思ってます。』
田中さん
『...。私もこの仕事をしているから色々な人を見てきました。わたしがお母様と同じ立場なら同じことを考えると思います。でも、色々な人をみてきたからこそ、ただ生きて欲しいと願うご家族様もいらっしゃいました。』
私
『多分、そのご家族様が普通だと思います。
でも、沢山考えて出した母の答えならやっぱり私は貫き通せるように応援する気持ちは変わりません。なのでこちらの病院でお世話になれませんか?』
田中さんの目は赤くなっていた。
こんな私達親子の話で泣いてしまうポイントが
どこにあったのか。ただこの人が優しい人だと
言うことはすごく感じた。
それと同時に、さらにこの病院に
母をお願いしたいと強く思った。
田中さん
『わかりました。こちらの方はできない事出来る事の確認が出来たので受け入れ可能です。病床が空き次第すぐに転院ができるよう手続きします。』
それと同時に病床が空くという事は
誰かが亡くなってしまったから。
という現実も目の当たりにした。
誰かの死を待っているようで
複雑な気持ちになったのはいうまでもない。
だけど私は安堵した。母にすぐ連絡をした。
母も喜んでいた。
なんだかんだ結局は人間。
自分たちが一番な生き物だなとも思った。
でも、そんなもんなんだ。
それが多分普通。
それから数週間。
長くて暗い2023年も終わり年が変わった。
【2024年1月】
母の転院日が決まった。
そして待ち侘びた転院日。
リハビリ病院は面会が一切できないので
母に会うのは11月以来。3カ月ぶりだった。
車椅子に乗ることもできない母。
ストレッチャーで寝たまま
介護タクシーで新しい病院まで行く。
久しぶりにあった母は
私を見て涙を流していた。
安心したような表情だった。
私は、いつも通り。
ニコニコして、優しい姿でいる事を徹底した。
だってさ、また長い事会えないかもしれない。
不安にさせたくないし、最後に見た私の姿が不安な顔してたら母が思い出した時悲しくなるから。
自分の気持ちなんて最後でいい。
介護タクシーに乗せられた母を
私は車でついていく。
介護タクシーの人は
ゆっくり優しく。できる限り段差を
避けて運転しているのがわかった。
この介護タクシーの人でよかった。
そして新しい病院についた。
看護師さんたちが出迎えてくれて
母は病室へ運ばれていった。
私は入院手続きや色々な説明と同意書に
サインを沢山した。
そして、主治医となる高橋先生(仮名)から
治療方針などの説明を受けた。
説明の中で、死ぬ前提の話を沢山した。
私は、同じ話を色々なところで沢山してきたから
手短に話す癖がついていた。
『母は、延命治療をせずに早く死にたいそうです。』
ものすごく簡潔にまとめてしまった。
薄情な娘に見えただろう。
でも、これが事実。
色々なところで簡潔に話すと
薄情でどうしようもない子供だと私の事をそう
思っているんだろうなって人も色々いたよ。
でもどうでもよかった。
その人たちにどう思われようが
本当にどうでもよかった。
泣きながら話せばなんか治んの?
泣かせればいいの?治る?
なんかお前らに出来ることあんのかよ。
そうとしか思ってなかった。
多分わたしも相当疲れていたと思う。
話はそれてしまったけど、話を聞きながら
『あぁ。ここが私達の最終地点なんだ。
もう行き止まりだなぁ。』
そんな事をずっと考えてた。
そして話も手続きも終わり病院の人たちに
『母をよろしくお願いします。そしてありがとうございます。』と告げて病院を後にした。
すっごい寒いけど、晴れた冬の日だった。
あぁ。もう母が病気と言われてから一年か。
早いなぁ。なんて思いながら。
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