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愛着を定義しよう

「愛着」について文章を書くことになったのに、「愛着」という言葉が自分の中にすとんと落ちてこない。

これは仕事でも遊びでもやっていることだが、まずは「愛着」の定義から始めてみる。
まずは自分が「愛着」を感じるもの, ことを出してみて、その理由を考察してみる。

私が「愛着」を持つもの, こと

Canon G3X

一番に思い浮かんだのはかれこれ8年近く使っているCanonのカメラである。中学生のときに景色が澄んだ街に住んだことがきっかけで、空や街や動物にカメラを向けるようになった自分が、高校の入学祝いに親にせがんで買ってもらったカメラである。Canon G3Xは600ミリの超望遠レンズを搭載しており、50倍までのズーム撮影を可能とする。50倍のズームというと、月のクレーターがはっきりと映るくらいである。なかなかに伸びる。一眼レフのような見た目をしているが実態はデジカメで(コンパクトデジタルカメラという)、レンズの取り外しはできない。

こいつを持って私はよく旅に出た。旅といっても、高校生の持ち金と判断力で行ける範囲の遠出である。東京都の西側に住んでいるので、大体は秩父や長瀞、たまに青春18きっぷを使って静岡県掛川市に梅を見に行ったこともあった。(養老渓谷の紅葉に憧れたものの、小湊鐵道の料金と所要時間の長さに面食らって泣く泣く諦めたのはまた別の話である)。持ち金の殆どを公共交通機関に費やしていたが、空、水、落ちた葉、風、光などを撮ることが好きで、正直写真を見てもどこで撮った写真かは、私以外判別できない。なんせ肉眼では見えづらい、遠くにあるものをおさめるカメラだったので、肉眼で見える対象はスコープ外だったのである。

望遠レンズのよいところは他にもある。
基本的に、物体にカメラを向けることは暴力だと思っている。少なからずその場に流れる空気を止める効力を、カメラは持っている。「はい、チーズ」の瞬間に動いていた人間がポーズを取ってぴたっと静止する光景は誰でも見たことがあるだろう。歩く、走る、笑う、食べる、話す、など流動的な動きを繰り返している人間が、数秒間の静止した世界の中に身を置くのは写真を撮られるときくらいだろう。流れる日常生活の一瞬を切り取りたくても、カメラを向けた瞬間に被写体は、より良い瞬間を残そうと、フィクションを作り出す。もしくは、あの真っ黒いレンズが自分に向いた瞬間に、圧迫感を感じて身構える。どちらにしろ、人の自然な動きを物体として抽出できる代物ではない。
しかし50倍ズームのレンズならば、被写体から遠く離れた位置からカメラを向けることができる(地球から月を撮るように)。カメラを向けられていることに気づかない人すらいる。そんなときにシャッターを切ると、被写体の髪は四方八方に流れるし、指先はやわらかな曲線を描く。草が風に吹かれるのと同じように、地球環境の一部として、存在する人間を収めることができる。流動している人間の姿は、静止した世界の中の、物体としての人間とは大きく異なる。写真に収められた人の表情からは、なんとなく「たのしい」「うれしい」がにじみ出ている(これは私が楽しそうな人を撮るのが好きだからかもしれない)。

一方でこいつの扱いはだいぶ難しい。まず、映像としてはあまり綺麗に映らない。夜景を撮るときにはとことん光が潰れるし、動く人を撮るとブレる。シャッタースピードやらISO感度やらホワイトバランスやらをひたすらいじくり回してようやく納得のいく映りになる。それでも少し日が傾いたり、撮る方向を変えたりすると、あっという間に作り上げた設定が崩れ落ちる。

私がこのカメラを手に入れたときと比べて、最近は周囲にカメラを持っている人が増えた。他人のカメラで撮らせてもらうたびに驚く。人がきれいに映るからだ。単焦点レンズを使うと勝手に背景がぼけてくれるし、暗闇の中でも少量の光を拾って全体が明るく映る。自分が写真が上手くなったと思わせてくれる。とてもありがたいカメラである。

先日、私のカメラを人に貸したところ「このカメラ、使いづらいね」と言われた。その人が撮った写真を見ると、私が撮る色とは大きく違う色がおさめられていた。それを見て「私の写真は私の写真だ」と思った。不便だけど自分だけが使えるもの、他の誰にも使いこなせないもの、私の色が出せるもの、あなたの色が出せるもの、不便の上に成り立つ組み合わせの自由度の高さが、愛着と執着をもたらすのか。

ちなみに、私のカメラはあまりにも不便なので、楽に綺麗な写真が取れる他のカメラの購入をずっと検討している。愛着よりも優先したいことが山ほどある。カメラは高いので、今持っているカメラを売って新しいものを買うのが現実的だ。しかし、初めての自分のカメラだからか、もはや自分の一番近くて遠い距離にいるカメラだからか、売り飛ばすことができない。好きかと問われればそんなことはないのだけれど、あまりにも自分と長い年月を過ごし、向き合えば自分の希望を汲み取ってくれる、けれど常にそっぽを向いている、そんな奴を手放すことができない。

具体をふまえて定義

具体的な物事をイメージして愛着を定義してみようと思ったが、わからない。結局愛着とはなんなのだろうか。よくわからない。この一事例から抽出されるのは、自分が手をかけたもの、思い通りにいかないもの、たまに期待を上回る成果を出してくれるもの、自分だけのもの、そんな安っぽい育成欲求のような要素である。愛着とはこんなものでしょうか。

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