切り札か、捨て札か

映画「ジョーカー(ホアキン版)」ネタバレを含む感想。


公開の際、アメリカでは非常に厳重な警備がされるなど、大きな話題となりました。

そこまで厳重な警備に意味があるのかと思われますが、以前「ダークナイト」公開時に自らをジョーカーと名乗り、映画館で銃を乱射した事件、オーロラ銃乱射事件があったため、そのような警戒をすることとなってしまったというのもあるのかもしれない。


もちろん、内容も貧富の差に関してのものであり、転落した人間の救済措置が明らかに少ないアメリカには、「ジョーカー」になりえる人間は確かに表れてしまうのだと、思ったりしました。


内容に関しては、ジョーカーの誕生について……と簡単に言ってしまえばそれで終わりなのですが、キチンとバットマン(少年)との関りを描写していたりと、メッセージ性の強さとともに、DC映画としてのまとまりもよかった。


ジョーカーに関してはいろいろな考察が世間にあふれているが、監督も俳優も作品の「答え」を語ろうとはしないのが、このジョーカーの魅力にもなっているのでしょう。

映画は、開始数分で辛くなってみるのをやめたくなるようなほどに辛かった。

重く苦しい生活苦の中で、ひたむきに……とまではいかないが、薄暗い中で未来を信じて生きている人間が絶望に向かって進んでいく様は、見ていて陽気なものになるものではない。

そしてその絶望は何も特別なものではなく、淡々とした日常の中で、良くないこと、運の悪いことが重なって、重なって、重なり合って立っていられなくなるなる。

そんな日は人生の中に一度は必ずある。もしかしたら一度ではないかもしれない。そんな時は決まって孤独なのだ。

孤独の中、時間をかけて立ち上がったか、這うようにして人生を続けている人もいるかもしれない。

そんな中で、「暴力」によって、世間とのつながりを持ってしまったら、「こう」なってしまうのかもしれない。

いや、あんなふうにはならないかもしれない。ただ、その世間と自分をつなぐ「暴力」は自分に向かうかもしれない。それも間違いなく一つの暴力だ。

主人公アーサーのように、ある種の誇大な自信と妄想症がなければ、外的な刺激と繋がりを持ちたいとは思わないかもしれないからである。

映画を見て、アーサーという人間は、途中から完全に概念のようになっていると思っている。もちろんこれは一つの感想だ。


アーサーが、衝動のままに冷蔵庫の中身を引きずり出し、その中に閉じこもる。

たったその数秒のシーンで、アーサーの死を確信してしまった。

冷蔵庫は内側から開くことはない。

あれは自殺だ、と。そして悲劇的な結末をたどった男の人生は、別の「ジョーカー」として受け継がれて、病のように伝播していき、一人の人間を追っているのではなく、途中から大衆の望むジョーカーという幻覚を見ていたのではないかと、思わされた。

アーサーは種を蒔いて、それを発芽させたのは大衆であると、思ったのだ。

ラストのシーンでは精神病院、といっていいのか。その、心療内科というか。そういった病を抱えた方の収容される病院で、人生を語るアーサーの姿が映し出される。

あれは時間が、巻き戻っていたのではないのかと思える。

本来あれは「最後」ではなく、「最初」だったのかもしれない。

地獄のよう現実と理想のギャップに常に苦しめられて、そうして膝をついてしまったアーサー。

彼はあのカリスマ的悪である「ジョーカー」ではなく、大衆へ「ジョーカー」という集団幻覚の種を蒔いた、そういった人物なのではないかと、映画を見て思った。



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