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泣く子はいねぇが

「泣く子はいねぇが」を観ました。

久しぶりに邦画を観た。私は観た映画を記録している。記録によると、邦画を観たのは去年の9月ぶり。大好きな「南極料理人」(たしか3度目)ぶり。それ以降はずっと外国映画を観てましたねぇ。

邦画を避けている、というわけではないのだけれど、どうしても同じ言語の映画は良くも悪くもダイレクトにこちらに伝わり過ぎるから苦手である。粗探しをしているわけではないのだけれど、感情やセリフの表現度(技術というと語弊がある)が気になってしまう。でももちろん邦画でも好きな作品はある。

結論から言いますと、とても好きな作品でした。私は芝居経験はなく、また映画評論家でもなく、ただただ映画鑑賞を趣味とする者なので批評はいたしません。あくまで個人の感想です。

仲野太賀さんのお芝居にはいつも驚かされる。というより、気づかされる、と言った方が近い気がする。彼を知ったのはドラマ「ゆとりですがなにか」だったと思う。当時はドラマに感情移入しすぎて「なんなんこの人!」となり、太賀さんをわけもなく嫌っていたほど幼かった。(今もですが。)でもそれって、冷静になって考えるとそれほど自然にその人物となっていたということだ。恐ろしき力!

おととしくらいだろうか?映画「走れ、絶望に追いつかれない速さで」を観た。あまりにも彼の芝居に魅せられた。途中、泣きながら食事するシーンがある。

思うに、泣きながら食事をするのは感情の極限だ。幼な子を除いて、泣きながら食事するなんてことは、日常では、基本的にはない。哀しいことや、絶望的なことが起きる。もういやだ。何のために生きてるんだろう。なんでこんなことばっかり起きるんだろう。もう消えたい。泣く。消えたい。ひたすら泣く。でも、食べる。それは「生きたい」と強く望む気持ちの現れであるのではないだろうか。

「食べる」行為の尊さ。「泣きながら食べる」というのは、感情と本能が入り混じっている状態だと思う。

太賀さんは、その状態を誇張せず、そして「仲野太賀」を脱ぎ捨て、等身大の人間の様子を表現していた。「表現する」という言い方もそぐわないほど。等身大の人間がそこにいた。人間って、泣くし、怒るし、基本ずっと悩んでいるし、笑うし、どうしようもないほど無駄なことしたりするよね。

この作品で彼に魅せられた。恍惚として彼の表現を見ていた。

私が邦画(あるいはドラマも)を苦手とする理由がもうひとつある。それは、「俳優」をそのままの存在で作品に登場させるからだ。人気な俳優や女優に、役名を着せるだけ着せて作品に登場させる。それが苦手。どうしても実人物がちらつく。すごくかわいい着ぐるみでも、人間が中に入っていることが強く感じられる着ぐるみがいる。あんな感じ。人気な俳優や女優が出てるから、彼らのファンはきっと映画館に観に行くし、それによってたくさんのお金も動くだろう。それはそれで商業映画のあり方として間違ってはいないと思う。でも私が求めるのはそれじゃない。私が求めるのは、着ぐるみじゃないもの。太賀さんの表現は着ぐるみじゃないなと感じる。彼が出ている作品すべてを見たわけじゃないですが。

またまた長くなってしまった……。久しぶりに観た邦画がこの作品でよかった。今回は仲野太賀さんに焦点を絞りましたが、もちろんほかにも魅せられた俳優さんや女優さんはおります。でも俳優さんに明るいわけじゃないので、よければ教えていただきたいです。俳優さんのことや、映画のこと。

追記:ちなみに最近観た映画の中で最も惹かれたのは「イル・ポスティーノ」です。美しいカット、叙情的な詩、どこを切り取ってもため息がでるほどでした。穏やかな余韻がしばらく続いていました。生涯大切にしたい作品。



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