なぜ悲劇は繰り返されるのか? 第8章:日本における力関係の在り方 ①

現在、日本に限らず社会の中における上下の力関係がその人の人生に大きく影響することがある。例えば、何かトラブルが起きたとしても立場の上の人たちの方が擁護されるケースが多い。そして、立場の弱い人に責任転嫁をするという社会構造が完成しつつあるように感じる。

 そして、日本だけだろうか?何か問題が起きたときに“自己責任”という免罪符を相手が突きつけて、自分たちに飛び火することを避けることや自分たちに損害を与えられないように自己防衛をする人が他の国に比べて多いような気がする。

 もちろん、他の国にも“自己責任”という言葉は存在しているが、日本ほど低年齢の時点からコントロールが難しくなる国はそう多くない。このように感じる理由としていくつか因果関係を疑うべき部分がある。

まず、“社会的評価基準の不明瞭”だ。

これは、個々が成長・発達していく各段階において他者が他者の基準で他者を評価しているため、価値観や思想観のズレによって人間関係のストレスを感じてしまう人の多くは価値観や多様性の観点ではなく、多数派(マジョリティ)の考え方が社会における判断基準や司法基準として採用されている、法令など判断材料として取り入れられていることでその答えに当てはまっていないケースが多い。つまり、大多数の意見が社会に対して通りやすく、共感されやすいという観点がある。一方で、少数派(マイノリティ)に対する社会的評価がかなり問題視されることも少なくない。その背景としては“時代相応”の法令であるかどうか以前に“自分たちの考え方が正しい”という思想観が少数派を守るのではなく、多数派を守るという構図を作り上げて行ってしまっているだけでなく、個人評価の在り方における社会的通念の歪曲が進んでいることが見て取れる。

 私は日本という国において社会的評価基準がその人の社会的価値を決めてしまい、その評価で社会を動かしてしまっているように感じるのだ。例えば、子供の時から注目されて、周囲から期待されている人と子供の時は注目されていなかったが、成長と共に注目される人では社会におけるパーソナル・イメージ(人格的イメージ)が真逆に出ることもある。その理由として、前者は幼少期からの“注目度”や“認知度”が積み上がっていき、成長と共に社会的価値も高くなっていく。そういう人はそこに実績が加わることで1つの価値を生み出すことが可能となり、その人が社会基準になっていく。

 一方で後者は前者が作っている基準を超えなくてはいけないだけでなく、そのような人たちを倒さなくてはいけないなど既存のパワーバランスや先入観を壊すことが出来ないと注目されることはないし、持続的に実績を出さないと同等には扱ってもらえないなどかなり社会的な扱いはかなり厳しい。

 そのため、夢を追いかけたいと思う人がいたとしても“芸能人・大手企業の社長が絶賛”や“大手企業から続々オファー”など社会に対してインパクトの強い印象を与えないといけないし、スポーツ選手などプロとして活躍するにも主要大会などで好成績を取ることやファンの人たちから注目をされないとメディアなどには取り上げてもらえないし、その先が無くなってしまう。このように、自分1人で何かを達成することは難しく、時間をかけてその人の良さや内容を社会が受け入れ始めるというのが一般的だろう。

 しかし、新しい事を始める人というのはこれらの関係性がマイナスに働くことも少なくないため、人によってはその人が考えたアイディアをメディアなどに取り上げられた事で“ぼったくり商品”や“欠陥商品”などとネット上で叩かれることや商品のことをいくら説明しても“詐欺商品を売っています”や“詐欺師です”などとその人の努力を潰しに掛かる人もいる。

 ここで間違えて欲しくないのは“その商品はその人が考えた物”という認識が必要になるのだが、“こんなの子供でも作れる”や“こんなおもちゃをこんな値段で売られると思うと買う人が気の毒”などその商品に対して十分に理解していないにも関わらず批判を通り越して誹謗中傷等に繋がっていくという負の連鎖が広がっていくということになる。だからこそ、その商品やアイディアをその商品カテゴリーの専門家の人が個別に批評して、どういう評価になるのかをきちんと明確にする必要があるし、もしもこれは変えないと法に抵触するなどの場合ならきちんと事前に対処できる。つまり、個人が自分の作った商品に対して多角的にアプローチできる環境を作らなくてはいけないということだ。

現在、小説とコラムを書いています。 コラムに関してもこれから完成している物を順次公開していく予定です。 自分の夢はこれまで書いてきた小説を実写化することです。まだまだ未熟ですが、頑張って書いていきますので、応援よろしくお願いいたします。