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フリーランスは突然に。

1つ目のスタジオを辞めてから、2つのバイトを掛け持ちしてお金を貯め、東京のスタジオマンとして修行の続きをと思っていました。
お金もある程度貯まり、そろそろ東京に出ようかと考えはじめた2001年3月に、先輩アシスタントから連絡がきます。


「●●さんアシスタント探してるみたいだよ。人物の撮影も多いし、1回会ってもらったら?」
最初のスタジオの先輩から突然連絡がきた。

その方は仙台でもよく目にする広告を撮っていたり、モデルやタレントを撮る現場も結構あるという。
その当時の僕は東京のスタジオで経験を積みたいとしか考えてなかった。
ところが何のご縁があったのか、1度単発で現場のお手伝いをすることになった。

“このカメラマンの下で学んでから東京に出ても遅くはないんじゃないか”

そう思えるほど、前のスタジオの現場とは何もかもが違った。
仙台のファッションビルのポスターの撮影現場で、被写体は女性モデル。スタイリストやヘアメイク・デザイナーなど今まで関わったことのない方ばかり。そして現場に変なピリピリ感はなく、誰もが楽しんで仕事してるように見えて、カッコよかった。

2001年の4月。仙台でフリーランスフォトグラファーのアシスタントとしての生活が始まった。今回はスタジオ勤めではなく、直のアシスタントという形で常にマンツーマンだった。

物腰が柔らかく話しやすかった師匠が、1ヶ月も過ぎると人が変わったようにスパルタになった。20年前のこの界隈での師匠と弟子の関係は、きっとどこもこんな感じだったんだろう。(料理人の世界では包丁が飛んでくるなんて言われてましたが...)

その年の夏頃には1人で現場に行かされるようになった。キャリア1年半くらいの24歳にして、簡単な取材撮影に1人で行くのである。
今なら撮ったらすぐ写真を確認できるデジカメがあるが、当時はフィルムで撮るのが基本。ポラロイドでまず撮影し、確認してもらい本番撮影というスタイルだった。

初めの頃は失敗できない緊張でガチガチになりながら、ときにハッタリをかましながら撮影し、仕上がりを師匠に怒られ続けた。が、やりがいはものすごく感じていた。

この取材撮影というのがフリーペーパーという形で出始めた"ホットペッパー仙台版”である。
24歳になるとこの撮影はほぼ僕に任された。
飲食店・美容室・洋服屋・マッサージやエステなどあらゆるジャンルのお店を撮影して回った。スタッフを含めた人物、料理・店舗内外観など、現場で撮影しながら基本を学ばせてもらえた。今の自分のベースになっている、非常に貴重でありがたい経験である。(国分町のオカマバーの撮影なんかもありました。綺麗なニューハーフのお姉さんではなく...。パワフルで下品でずっと爆笑しながら撮影してました。)

僕が25歳を過ぎると、師匠の案件も打合せに同行し、現場ではセッティングまで任されるようになる。本番撮影でシャッターを押す以外、現場の組み立て方を自分なりに積み重ねていける貴重な時間だった。

同じ時期に年上のアシスタントがやってきた。僕と同じ写真に関しては素人の方だった。師匠と3人で動くことより、僕と2人で現場で出ることが多かった。
自分の下に人がつく喜びもあったが、教えることの大変さや、現場をマネージメントする難しさに悩んだ日々でもあった。
結果僕がフリーになるまで、3人目のスタッフは2回入れ替わった。

カメラマンに向いてる向いてないではなく、心折れずに自分を信じきれるかがアシスタントの時は重要なんじゃないかと今では思います。
僕も何度かくじけました。
出社拒否したり、現場で怒られ帰れと言われ帰ろうとしたり(苦笑)

ホットペッパー以外にも広告代理店などから仕事が入ってくるようになると、東京に出たいという気持ちは薄くなり、仙台でより大きい案件の撮影をしたいと考えはじめた。
当時の仙台では、このポスターを撮りたいと思う案件のほとんどはフリーランスの方が撮影していた。

自然な流れで27歳も半ばを過ぎるとフリーになることを意識しはじめ、ヤフオクで独立に必要な機材を買いはじめていた。

そんなときに僕の中では大きな事件が起きる。
僕が一人でいった現場の写真の仕上がりについて師匠と話したときである。

「ここはもっとこうでしょう」

今までなら流せていた普通の会話も、このときはカッとなって言い返した。現場の状況も見てないのにそりゃないでしょうと怒りが込み上げた。他にも色々なことが積み重なっての怒りだったが、このときの会話をきっかけに独立を決心した。

来年の3月いっぱいで独立したいと伝えたのが2005年の10月。
そこから急転直下で2005年12月でフリーランスフォトグラファーとなった。
なったというよりなってしまったという感じだった。23歳からお世話になり、色々と貴重な経験を積めた5年間への感謝の一方、ちょっと悲しい終わり方だった。

僕の中の予定より4ヶ月早まった独立でしたが、ご厚意もありホットペッパーの仕事は継続することになります。2週間くらいの拘束で約5~60万円くらいの売上になっていたので、ベースとしては非常にありがたい案件でした。
が、デジカメが主流になりつつあった当時、2006年になると激変しました。
激動のフリーランス1年目につづきます。


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