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最初の月給3万円

99年の5月末からスタジオのアシスタントとして、カメラマンになるための修行をはじめました。
今思うと恥ずかしいですが、知識も経験もないのに、当時の僕は「絶対に自分はカメラマンになれる」と根拠のない自信だけはありました。
しかし現実は...(苦笑)


広告の世界は、華やかで派手なイメージを持っていたが、実際の現場は地味な作業の積み重ね。前日の準備からはじまり、現場でのセッティングなどすべてを計算した上で撮影されてる職人の世界なんだと知った。
失敗が許されないからこそ、現場は常にピリピリで、入りたての素人ができることは荷物を運ぶことぐらいだった。

「ヤバイ!! 思ってたより全然大変だ...」
とにかく覚えなきゃいけないことが多すぎて、焦りと不安しかなかった。早々と根拠のない自信はどこかに消えていった。

このスタジオでは、東北6県の観光地や温泉街にあるホテルや旅館などに出向き、露天風呂や客室・コース料理などの撮影が主な案件だった。他に自社スタジオで商品カタログ用の商品を撮影したりという静物撮影がほとんどだった。

当時そのスタジオは結構な忙しさでした。
例えばですが...

4:00 スタジオ集合
4:30 スタジオ出発 →車で移動
8:30 青森県内のホテル到着
    施設・コース料理など撮影
18:00 撤収 →車で移動
24:00 福島県内の旅館到着
    コース料理など撮影
3:00 仮眠
4:30 起床 →朝焼けの露天風呂撮影の準備
    露天風呂・内風呂など撮影
7:00 撤収 →車で移動
9:30 スタジオ到着 →一旦解散
12:00 スタジオ集合 →照明セッティング
    スタジオで商品撮影
21:00 終了・機材バラして解散

体力に自信があった僕も結構大変でした...

夏になると少しずつ仕事に慣れ、できることも増えたが、怒られることはそれ以上に増えた。
指示を受け動いていても、実際は理解できてないことの方が多く、ただただ自分が情けなく悔しさしかなかった。

こんな感じで毎日怒られ続けると、人間は気軽に会話ができなくなり、萎縮することが多くなる。意を決して、師匠である社長にわからないことを聞いても「自分で考えろ」と言われるだけ。
”見て技術は盗め”というスタンス
「現場でやってることが理解できないのに、どうやって盗めばいいんだ!?」と悩んだりもした。(心の中では、「写真は上手いけど、このオッさん人間としては終わってる」って本気で思ってました)

それでもアシスタントの先輩が、色々と親身になって接してくれたお陰でなんとか頑張れた。(この先輩には大感謝です!!)

その一方で、最初の月給が3万円というのは驚愕だったが、給料をいただきながら現場で色々なことを学べる立場にいられることは、本当にありがたかった。
この感謝の気持ちと、怒られ続け「何クソッ」っていう相反する思いを糧に日々食らいついていった。

現場でのアシスタントと並行して自分が撮る練習も必要だった。
仕事が終わって余裕があるときは、アーケード街で夜な夜な遊んでる同世代の若者を撮り続けた。

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会話をしながら人を撮ることが楽しかった。
その気持ちは徐々に大きくなる。

「自分は将来“人物”をメインで撮る仕事をしたい」

写真の世界に入り1年が過ぎる頃には、先輩も他のスタジオに移り、僕の月給も12万円に上がっていた。
相変わらずアシスタントで入る現場ではめったに人物撮影はなかった。

人物を撮る現場で働きたいという気持ちは日に日に大きくなる。
東京のスタジオマンになりたいという思いだけが膨らみ、「辞めさせてください」と頭を下げた。


働き始めて約1年後の6月半ばのことだったと思います。辛いことの方が多かったからか、あまり詳しくは覚えてないことの方が多いです(苦笑)
辞めてからバイトを2つ掛け持ちして、東京に出直すためのお金を貯めようとフリーター生活をはじめます。
2001年の春には東京のスタジオで働くことを目標に。





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