本気で休むについて真剣に考える(後半)#326
昨日の続きを書きたいと思います。
昨日のnoteは下記参照
休むときには、身体的にカラダを休めることだけではなく、精神的にも休息をとることが大切であるということを前回伝えようとしました。(1文でnoteの題が完結した💮)
今日は、具体的な話をしようと思います。
何をすればココロが休まる?
ココロが休まるとはつまり、幸福を感じることにあるのではないでしょうか?
人が何によって幸福を感じるかは人それぞれかと思いますが、少なくとも、実際にメインの収入を受け取っている労働こそが幸福になっているケースは少ないのではないかと思います。
なぜなら労働が幸福になるなら、休日はいらないからです。(成り立つ人もいるでしょうが)
休日を欲している人は少なからず、幸福を仕事以外の別のところに求めていることでしょう。それが圧倒的多数であり、当前の理です。
では、ココロが休まる幸福感はどのようにすれば感じることができるのか?
幸福感を得る方法
冒頭、幸福と感じるものは人によって異なると伝えた通り、何がその人の気持ちを満足されられるかは分かりません。
ですが、一般論であれば話せそうです。
例えば、趣味で幸福を感じる瞬間とは、どんな時でしょうか?
承認欲求とも言われますが、その趣味を他人から認められたり、評価されたら、喜んでもらえたときが喜びに感じる人もいるでしょう。
また、自己実現欲求と言われるように、自分が立てた目標やあるべき姿に対して、近づけた時に幸福を感じる人もいるかもしれません。
幸福と欲求は密接に結び付きます。
欲求とはすなわち欲望、欲しいと望むものにも関わるでしょう。
であれば、欲しいものが手に入らない、欲しいもののハードルがものすごく高い人ほど、満足するには程遠い。
故に、めちゃくちゃ頑張るのかもしれません。
年収1億円を達成することに近付くことで喜びや満足感を感じる人は、ずっとそこに対して執着して頑張れる。
では、例えば、逆に求めるものが近くにすでに存在している人は、それこそがモチベーションなのでしょう。
つまり、近くに欲しいものがすでにある人にとってはそれこそが真の休息なのです。
自分にとっての休息を見つける
自分にとって求めているものが休息なのであれば、私にとって休息は彼女と一緒にいられる時間です。
行動に対する原動力も、休日の使い方に対する価値観も全てはそこに収束してくることに気付きました。
例え、会うことだけに数万円をかけてでも、その“会う”という行動に価値が見出せる。
なぜなら、会うことこそが最高に幸福を感じられる瞬間であり、一番納得できる休息なのだから。
このタイトルをつけた意味
昨日から今日にかけて、2回に分けてまで休息をタイトルにつけたのには、意味があります。
しかし、それは自分がこの文章を書くまで体系化できていないものでした。
ですが、noteで文章に起こしたことで、自分がなぜ彼女に逢いに行ったのか自分が納得する説明をつけることができるようになりました。
つまり、自分がなんとなく逢いに行ったのも、このnoteのタイトルをなんとなく付けたのも、実は関係があって、
それは強引ならこじつけかもしれないけど、確かな因果関係があったからということです。
このnoteには、その面白みがあると勝手に感じているのでした。
指示語がたくさんあって、まるで国語の課題みたいになりましたが、結論が出ました。
私が彼女に逢いに行ったのは、自分の行動原理的に最も理にかなった休日の過ごし方だったからです。
その時間を最大化する為に、わざわざレンタカーを借りてまで、夜な夜な走ったことにも説明をつけられます!
どれだけ値段が高くついても、少しでも一緒にいられる時間が長くなる方が、幸福度が高いから車を借りた。
それだけの価値が彼女との時間にはありました。
自己正当化の自己説得でもあり、再確認の為に書いているnoteでもあるのでした。
それでは、最後までお読み頂きありがとうございました。
いつもnoteを読んで頂きありがとうございます✨ サポートをして頂けましたら、創作活動の勉強費用に当てて、ゆくゆく必ず社会に還元させて頂きます🍀