極私的読後感(7) なぜ宗教は平和を妨げるのか

宗教家である町田氏は、世界で起きている宗教にまつわる武力紛争などを直視しつつ。最後には『もし宗教が真理や正義というまことしやかな表現で「とらわれ」を説き続けるかぎり、われわれは毅然たる態度で、その宗教を踏み越えていかなくてはならない。神にはたった一人で立ち向かえ。』と説く。

無論、この事がテロの犠牲者の方々、そしてそのご家族を慰謝するには物足りないかもしれない。しかし、宗教を「客体」として捉えている限り、不毛な二元論的論争・闘争から我々は脱却できないのだと思う。

恐らく、イギリスではテロ対策として宗教指導者への国外退去処分などの措置が採られる事になり、それに対する反発や、新たなテロの惹起が懸念される事態となろう。

かつては国家という幻想が、実像を伴って人々を支配していたが、今は国境の概念さえ薄れ、宗教は空間を越えて伝播する。それを批判し、対処しようとしても、そこに対象は見えない。確かに、テロの犯人は実在し、どこかに居るだろう。しかし、彼らを捕らえる事で、世界は果たして安全になるのだろうか?

『アメリカも「アメリカという名の宗教」を広めようとしている』という説が、この本の中に披瀝されている。確かに、アメリカ程強いソフトパワーを持っていた国は無い。日本でもいまだに『アメリカ』という言葉に特別な意義を感じてしまっているのであろう。

その「特別な意義」が「とらわれ」であるならば、それは超克すべき何物か、なのではないか?

政治が宗教を制御する事を「宗教弾圧」といい、「信教の自由」を守れ、と言う。

一方、宗教は「聖戦」を唱え、無辜の民を傷つけ続けている。

これは「政治」や「宗教」で解決出来ない問題なのではないのか?

事実、二千年以上我々は宗教と政治の相克を解決出来ないでいるではないか。

その事を論じる識者を、本書の著者である町田宗鳳氏以外に、私は多く知らない。


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?