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変わる風景と、変わらぬ味

上に挙げた写真は、スターリンの検閲前(上)と修正後(下)である。これは、後に”良からぬ(粛清対象)”人とスターリンが写っていることを”快く思わない”人が修正したわけだ。

この写真を挙げたのは、多くの人にとって、歴史は自分に都合の良い部分のみが”事実”であり、それ以外は”欺瞞”や”嘘”だ、ということの”意地の悪い暗喩(metaphor:メタファー)”の為である。

コロナ後の「新しい生活様式」が示された後、多くの飲食店が弁当・テイクアウト販売・デリバリーに取り組み、客席数も半分に減らして、仕切り板を立てて独房のような食事に対価を払わせるようになってしまった。

この週刊現代(2020年6月6日号)の記事にある「新しい生活様式」がもたらした変化への違和感と嫌悪感について「そのとおり!」と思ってしまう自分がいる。

そう、昨日まで”良し”とされていたことが、突然許されなくなり、その新しいルールが、恰(あたか)も昔からあったかの如く信じて、破ったものを罪人の如く吊るし上げるという、いつぞやのドイツや中国、旧ソ連、旧東ドイツやカンボジアなんかで流行った密告や吊し上げがSNSで流行り、それを報道機関が「自粛警察」などと言われつつ”治安維持の手先”のようになって取り上げて、その行為の気味の悪さに疑いを持たないという、誠に薄気味の悪い時代になってしまっている。

しかし、思えば日本の中であっても、食習慣は大きく変わってきて、今に至っていることを思い出さねばならない。

例①:1日3食食べるのも、

実は、日本人が1日3食食べるようになったのは、江戸期に入ってからと言われている。

 フランシスコ・ザビエルが1549年頃に書いた報告書には「日本人は1日に食事を3回する」とある。戦国期当時、戦場では1日3食であった。30日間までは、食料は自己負担だが、30日を過ぎて長期戦となると、軍=大名からの支給制へと移り、1日の消費量は、1人につき6合分(約900グラム)支給されていた。一回の食事につき、米2合分(約300グラム)ということになる(米だけで1日の摂取エネルギーが3,204kcalにもなり、塩も支給されていた)。夜戦の際には増配された。
 江戸時代に庶民が1日3食を取るようになったのは元禄年間(17世紀末)からとされる。牢中の囚人に対する食事の回数は身分によって違い、江戸市中小伝馬町牢屋敷では、庶民は朝夕の2回に対し、武士は朝昼夕の3回で、罪人であっても地位によって待遇に差があった。17世紀の日本において1日3食が広まった理由として、「照明が明るくなった町の商舗経営の長時間化が刺激になった」とも考えられており、身分・職種(力士)によっては2食が残った。庶民3食化のきっかけについては、「明暦の大火(17世紀中頃)後の復旧工事に駆り出された職人に昼食を出したところ、広まった」ともいわれている。他にも1日3食を記録した例として、幕末の忍藩下級藩士が記した絵日記である『石城日記』があり、朝昼夕とその日に食した内容が細かく記述されている(日付によっては、3食とも茶漬けとある)。なお『石城日記』では昼食を「午飯」と記している。
出典:Wikipedia「食事」> 回数より抜粋

最近など「朝食事をした子供は成績がいい」などと言っているが、そんなこと言い始めたら1日10食位にするとどうなるのか?とか、実験しないのか?というような意地悪なことを考えてしまう。

例②:日本人には、日本米!と言いますけど、

また、「日本人は、代々日本の米を愛してきた」というような事を言われる方がいらっしゃるが、実は江戸末期には既に中国やヴェトナムから米を輸入して食していたという記録がある。

 たとえばわが国は慶応のころから南京米を多量に輸入している。明治二年には仏印地方は豊作であったので、安南・サイゴン(現在のヴェトナム)米を三一八万石輸入した(「米相場考」)。明治三年の小菅県の窮民救助義社の報告(「報恩社報録」)によると、「支那米八百十石五斗八升買入、此代金六千四百八十四両ニ分永百四十文、但運賃諸掛共、金壱両ニ付一斗二升五合換」とみえ、シナ(現在の中国)米を輸入していることを語っている。南京米は日本米よりはるかに安価であったのでこれを買入れて、日本米を逆に海外に輸出していた。
出典:日本食生活史 / 渡辺実 [284ページ] より抜粋

日本人が、自国産の米を狂信的に信仰しはじめたのは、早くても明治期以降であって、江戸時代でさえ、米を輸出しながらも、実需用としてヴェトナムや中国から米を輸入するという合理性を持っていた。

(余談だが)逆に今(戦後)は、政治が農民の”票”をもって議会の支配力を高める、いわゆる高度経済成長期に日本でも拡がった「マシーン政治」の残滓(ざんし:のこりかす)として、国産米(それとなぜかカロリーベースの食料自給率)を関税や非関税障壁で守ってきた為でもある。

今の常識が、明日の常識ではない

このように、日本人の食を取り巻く環境は、実は大きく変わってきているのだが、今回のコロナ禍にように、極めて短時間に、かつほぼ反論を赦(ゆる)さないような導入で変化が起きたのは、ほぼはじめてではないだろうか?

通常であれば、変化の緩やかさ(時間)がその変化の痛みを和らげてきたのが、今回はその”時間薬(Time Medicine)"が無い状態を強要されてしまっているのが、実に遣り場のない腹立たしさを我々にもたせてしまっている。

しかし、その時間軸の長短はあれども、我々が変化を受容して、それに身体や制度、仕組みを順応させて生き伸びてきたことは変わりなく、つまりは、過去や今の常識を、未来永劫続く常識であると信じてきたわけではないことを、我々は(少なくとも頭の中では)理解している。

そして味でさえも

そして味でさえも、常に新しい味が生まれ、多くは忘れ去られつつも、いくつかは人々の”舌の記憶”に残り、それが次のスタンダードになったりしてきている。

おそらく、精進料理が出される宿坊のようなところではなければ、いかに古くからある店であろうが、味は変わってきている筈で、かつそれが緩やかに進んでいるので、誰もその変化に気づかない、というのが本当のところではないだろうか。

現存する世界最古のレストランは1725年創業のスペインのお店だが、そこで提供されている料理に使われている調味料や酒、そして何より素材自体が、当時とは製造法や飼育方法が変わっている。つまり、全く同じではないのだ。

そう、万古不易(ばんこふえき:いつまでも変わらないこと)な味などは、そうそう存在せず、我々は、その変化したそれを受け入れるしか無いのだ。

さて、無量寿経(仏教の経典の一つ)に、

人、世間の愛欲の中に在りて、
独り生まれ、独り死し、
独り去り、独り来る。(無量寿経「五段悪」より)

とある。要は「人間は欲望に満ちたこの世に、一人で生まれ一人で死に、一人でやってきて一人去っていく」という。

とはいえ、人間は食卓を囲んで育ってきたのだか

しかして、『例えば、対面してものを食べる行為は、人間だけにある習慣で、ゴリラもチンパンジーも食べる時は分散し、あまり顔を合わせないようにして食べます。でも、人間は食べる時にわざわざ集まって、お互いの顔色を確かめながらその場を楽しんで食べる。』と、京都大学の山極総長は言う。

この「お互いの顔色を確かめながら」食事をすることが、人間の人間たる所以(ゆえん)であるならば、外食のレゾン・デトール(存在理由)を、そこに見出すことも可能ではないだろうか?

しかし、仮に「お互いの顔色を確かめながら」食事をしないことが進化となったとするならば、我々はどのようにして社会性を獲得していくのだろうか?

はたまた、インターネットの発達によって空間を超えて高い次元で共時性を獲得した人間にとって、「社会性」や「公共性」は過去の遺物なのだろうか?

いや、そうは思わないが、今の状況を見ると、そうとは言い切れない自分がいる。



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