極私的読後感(2) 犯罪報道の犯罪

・・・マスコミは市民の上に立つ権力となっている。マスコミ記者の多くが、権力をもち、弱い市民を傷つけている事に気付いていない。自分のペンがどれほど多くの人々の運命を狂わせているかわかっていない。・・・
『犯罪報道の犯罪』はじめに より(浅野健一・著)

 公益性や報道の自由というのは無論大切ではあるが、これだけネット上に個人情報を含む様々な情報が「現実に」流布する状況下で、「公式報道」的、「正統派の報道」を行ない続けるのは、「仮に」にネットが「報道する側にとって否定すべき存在」であったとしても、公益性と人権との利害相反が起ることが「現実に」起きている以上、それに対して何らかの配慮やガイドラインの設定を行なわないと「報道の自由」が「基本的人権」と衝突する時が来るのは当然であり、事実そのような事態が既に起っている(松本サリン事件等)。

 ちなみに上記に引用した本書は1987年4月に「既に」書かれている。33年前である。さて、今のマスコミの動きは、果たしてどうなのだろう?

 仮に、とある民間企業や政府機関、地方自治体、公的機関が33年間も繰り返し繰り返しスレスレの違法行為や反社会的行為を断続的に続けていたとして、マスコミは取り上げないのだろうか?

 否、吊し上げるだろう。

 では、当のマスコミが恒常的にこういう状態にあることを、果たして誰が取り上げるのか?

 自社の事案でなければ「当社の話ではないのでコメントは差し控える」、あるいは「我々も襟を正して取り組んでまいります」などと言うのだろう。そうやって首をすくめて見せて、やり過ごすのだ。仮にそれによって「マスコミ全体」が深刻な信用失墜を起しても・・・。

 国家元首や与党の政治家の漢字の読み違えやスキャンダルにはうるさいが、ニュースを読むアナウンサーの漢字の読み違えや醜聞には甘い。そんな存在が、一般社会において、果たして尊敬され、(所与の権利とされている)行動の自由を「優先的に」担保され続けるのだろうか?

 永年続いた「漠然とした信頼感」が失効した途端に、その存在(マスコミ)は急速に存在理由を失い、前述した通り「吊し上げられる」だけになるのではないだろうか。

 かつて、中央官庁の官僚は畏敬の念を持って遇せられた時代があった。しかし今は、しばしば嘲笑の対象であったり、無為無能の象徴にさえなるときがある。

 彼らマスメディアは而して、彼ら官僚を嘲笑しつづけるのだろう、「明日のわが身」と気付かないままに。

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