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民主主義の本質と価値(ケルゼン):極私的読後感(39)

この本は、昔は「デモクラシーの本質と価値」という名前で出版されており、法哲学とかそのあたりの授業での参考図書として推奨されて読んだ記憶がある。

著者のハンス・ケルゼン(Hans Kelsen)は、あまり(というかほぼ)一般には知られないオーストリアの法学者であるが、個人的に”民主主義とはなんぞや?”というような漠然とした問い(迷いも)について、ふと記憶に蘇って落手したのが、この本である。

30年近く前の大学時代の記憶などゼロに等しいのであるが、改めて読んでみると、改訳されているのもあるだろうし、それなりに歳も取ったこともあるせいか、非常に読みやすく感じるのと、(本文はもとより)”はじめに”から激烈な言葉が並んでおり、本はつくづく最初からちゃんと読むべきだ、と改めて思った。

社会民主主義という巨大な大衆運動は、まさしくそれを先導する社会民主党という政党名が示すように、その精神の半分は民主主義である。それは社会主義の実現とともに、民主主義の実現に最大限の精力を傾注し、大きな成果を収めてきた。ところが、この運動は、社会主義の基本原則のみならず、なかんずく民主主義の基本原則が実現しそうになったその時点で、停滞し、さらには分裂してしまった。分裂した一方の勢力は、当初は逡巡(しゅんじゅn)し、さまざまな障碍(しょうがい)に苛(さいな)まれたにせよ、結局は民主主義実現というかつての目標の推進へと立ち返った。しかしもう一方の勢力は、決然と、激烈に、他の目標へと驀進(ばくしん)した。その目標が専制支配の一形態であることは、憚ることなく公然と表明されている。(p.12 "はじめに”より抜粋)

この”はじめに”にある歴史背景としては、第一次世界大戦で敗れたドイツは、帝政から共和政に移行(ワイマール共和政)した。上記引用の「社会民主党」とは、ワイマール憲法を成立させた連立政権の中核であった「ドイツ社会民主党」のことである。ケルゼンは、後に起こる国民のワイマール体制への失望(敗戦の賠償金支払いなどによるハイパーインフレから生じた不満~のちにナチス台頭の温床となる)から、この(民主主義による)共和政が、左右政治勢力からの攻撃を受けていたことが背景としてあり、かつ、それが「社会民主主義」者をして、専制支配へと駆り立てていることへの慨嘆や怒りが、本書全体に通底している基調を成している。

本書には「他一篇」として、『民主主義の擁護(1932年)』という一文も取り上げられている。

個人的には、これも、現代的な意味を強く持っていると感じている。

多数者の意思に抗して、実力行使に訴えてまで自己主張する民主主義なるものは、もはや民主主義ではない。民衆[Demos]の支配[Kratos]である民主主義が民衆に敵対して存立し得るはずがないし、そのようなことは試みるべきでもない。民主主義者はこの不吉な矛盾に身を委ね、民主主義救済のための独裁など求めるべきではない。(p.171「民主主義の擁護」より)

と、”叫んで”いる。そして、こう付け加える。『船が沈没しても、なおその旗への忠誠を保つべきである。(p.171)』と。

さて、昨今の政治状況、特に、民主的プロセスで選出された与党、そして政治指導者を「独裁者」と論難し、多数派を形成出来ない状況に対して野党や反対派である彼らが取っている活動を想起するに、ケルゼンの嘆きは、現在的な意義を強く発しているように、私には思えるのだ。


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