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当事者だけ

誰かが悩んでいたら相談にのる。
意見を求められたら助言をする。
至って普通の日常に起こることであり、
逆も然りで、誰もが想像しやすい光景、
あらゆる人の日常に溢れた現象だと思われる。

自分が1人しか居ないのと同時に、
誰かも1人しか居ない。

その1人の気持ちはその1人にしか
完全にはわからない。

でも、きっと、解ろうとしてくれる人がいる
というのは拠り所として大きなもの。

自分の話をひと(友だちであり、恋人であり、家族であり、自己ではない他のもの、いわば他人。すごく辛辣な言い方に見えるけど、二つに分けた場合の他人。)に、
どれだけするか、どの他人(誰)にするかは、とても悩ましいタイミングがある。
20も過ぎれば自ら行動しない限り、新しい友だちができる機会は少なくなる。
その一方で、友だち歴が長い友だちが増え、家族との関係も自分の歳が伸びる分伸びていく。
すると気がつけば、同じ話をするとしても誰に話せばどういう反応になるか、
大まかには見えてくる。
実際話してみると大まかに当たっている。
その事実さえわかると、次第に誰に何を話すか無意識に考えるようになった。
そしてその後の反応もうっすらとは考える。

誰だってきっと、話した後は自分で決める。
話した相手の反応は参考になると思うが、参考の範囲が人によって異なる。
だから女の人は話したいだけで、答えは決まっているなどと言われる場合がある。
私はきっと参考にはするが、参考にしかしないと決めている。

だから、人から話をしてもらった場合も断定しないし、否定オンリーでも返さない。
極論、自分も含めて皆自分で決めるしかないとすら感じている。

当事者にしかわからないことをとやかく言えない。でも当事者は誰かの何かしらの意見を求めている。
強くなるしかないのかもしれない
当事者も、周りも。

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