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超短編小説 044

『「掘って出てきたものは全て宝物」説』

日曜日、時間が出来たので3歳の息子と近くの公園に行くことにした。

今日は砂場で遊びたい気分だと息子が言うので「スコップ公園」に向かった。

「スコップ公園」とは、僕と息子が勝手につけた名称である。砂場に沢山の砂場用の遊具があり、大人も使える大きいスコップが5本くらい常設してあるので「スコップ公園」と名付けた。大人一人が埋まるくらいの穴を掘りたいときには、「スコップ公園」がおすすめだ。

さて、公園に到着すると僕らは上着を脱ぎ、靴と靴下を脱いでベンチに揃えて置いておく。もはや砂場での”作業”の準備である。今日の作業内容は「大きな山を作りながら、砂場の底を見つける」にあらかじめ決めておいた。

公園で見かける、父親と子供には3パターンあり、「子供が遊んでいるのを一定距離を保ちながら見守る親」がパターン①。「子供を自由に遊ばせて自分はベンチに座りスマホを見ている親」がパターン②。そしてパターン③が「子供と一緒に夢中で遊ぶ親」である。僕はパターン③のタイプで、汗だくになって泥だらけになって遊ぶ。遊ぶのが好きで単純に楽しい。だから妻に、夢中になりすぎて子供を置いてきぼりにしてしまうのを怒られることもある。

今回も、やる気満々だった。まだ「スコップ公園」の砂場の底は見たことが無かったので、たとえこの腰が砕けようとも掘り続ける覚悟でいた。息子も同じ意気込みで共に砂場に挑んだ。

ここの砂場は軽かった。前日の温かい天気が砂場の水分を蒸発させて、乾燥した砂は重さが無い分どんどん掘り進めて行けるので、楽勝だと思った。しかし、50センチほど掘り進めていくとだんだんと砂は水気を増して重くなっていく、更に同時に山も作っているので、1.5m四方の狭い砂場には足の踏み場が無い。深くなれば深くなるほど腰を曲げて土を掘ることになり、腰が悲鳴をあげ始める。息子は山の頂上に噴火口を作り始めた。ディテールにこだわるのは大切なことだが、掘り進める人員としてもうあてにならない。

明らかに、作業スピードが落ちてきたとき「コツン」とスコップに何かが当たった。「何だろう?何かある」と僕が言うと、噴火口を作っていた息子も一緒に砂の中を覗き込んだ。丁寧に「何か」の周りを掘り進め、掘り出して水道の水で洗った。

掘り出した「何か」は、ボトルキャップの上に付いた人形(フィギュア)で、調べてみると十八年前に飲み物に付いていたおまけだった。特段の価値も無い値段もつかないようなもの。

しかし、息子は目をキラキラさせて、発見した物に見入っている。そして「持って帰ってもいいかな」とひとこと。普段なら、落とし物を持って帰ってはいけないと教えている。けれども、「僕らが発見していなければ永遠に埋まったまま」であること、「これを探している人はおそらくいないであろう」ということを自分に言い聞かせて、持って帰ることを了承した。

その人形は息子にとって宝物となった。大切に持って帰って母親に自慢げに見せる。発見した経緯をこれまた自慢げに、さも大発見をしたかのように話す。節々に「すごいでしょ、すごいでしょ」という言葉を何度もはさみながら。そして、それを持ったまま寝たいと言い出すぐらいの宝物なのだ。

簡単に手に入ったものならば、そこまで喜ばないかもしれない。砂場で発掘したからこそ喜びが大きかったのだと思う。子供にとって汗をかいて作業した結果のサプライズ的な報酬は、大人にはもはや分からない境地なのだろう。大人は報酬のために働くから。

「掘って出てきたものは全て宝物」説。子供にとってだけでなく僕もそんな心を取り戻したいと思いながら、人形を持って眠る息子に布団をかけた。

《最後まで読んで下さり有難うございます。》

僕の行動原理はネガティブなものが多く、だからアウトプットする物も暗いものが多いいです。それでも「いいね」やコメントを頂けるだけで幸せです。力になります。本当に有難うございます。