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ぼくがシャワートイレをやめた日。


その日、ぼくはシャワートイレをやめた。人生を左右するほどの決断だ。
そう、「尻断」(ケツダン)だ。ぼくはケツにシャワーをあてるのをやめたのだ。その日から穴から逆噴射をすることはなくなった。

菊の花は乾ききっていた。

住むうえでこれだけは譲れないものは?と聞かれたら0コンマかからないうちに口の先端から「ウォシュレット™」と答えているだろう。本当は温水洗浄便座というべきだろうか。

ぼくはその10センチほどの管から放たれる、水の光線が好きだ。その先にある「穴」を的確に目掛けるその放物線はまさに「栄光への架け橋」。

そんな金メダル級の製品を手放す理由は他の何物でもない、「痔」だ。

これは想像を絶するほどの痛みを伴う便意との闘いが毎度訪れる。水分量を失った茶色の「モンスター」はぼくの「待った」などお構いなしにメリメリと顔を出す。当の本人の顔は殺人現場を見たかのように口をぽかーんと開けたまま、ただただ顔面蒼白になっているだけだ。時折、言葉にならない「あ」を発する。

激痛の中思うのだ、処女膜が破られる瞬間を。経験したことはないが痛い。痛いのは確か。そしてデカいイチモツが中に挿いるか、外に顔を出すかの違いだと、イリノイ州立大学の生物化学科のイヴェンソン教授は本人の著書の中で語っていた。

そんな教授はいないし、そんな言葉も存在しない。ただの感想だ。男女不公平なく例えるならば、口を全開に開けたときの口の両端の半分、口角になる部分がデカいモノが口に入り裂かれるようなそんな痛み。

だが、この自分もただ痛みに耐えて涙を呑んでいるわけではない。戦わなければ。そう、このおケツこんにちは野郎の見た身を封じる策を考えたのだ。どうすれば痛くないのか。そもそも、ボラギノールに頼ればいい話なのだが。といってしまうとこの戦略に優れた頭脳が無駄になってしまう。

どうすればいいのか。

ふと、思い出した。猛烈に我慢ならない便意、特に通勤中の電車内だ。漏らすわけではない、危機一髪漏らす寸前でトイレに駆け込みブリブリとするときのことだ。あの時はほぼセットポジションに入る前からやつらは出てきている。そう、ほぼパンツを脱いで両足がセットされて、しゃがむその瞬間だ。

あの時は快感でしかない。スタンディングスタイル。これだ、と。そもそも和式も洋式もなぜケツの穴をひっぱるスタイルとなる。そうするとどうしても穴から出るラスカルは窮屈極まりない。そう思わないだろうか。やつらを漏らすときは基本スタンディングポジションだ。そう、穴はゆるくなっている。これはいける。あのギガンティスとも対等に戦える。その日を待ちわびた。

そして数時間後、やつらは来た。ゲリラかと言われたらYesでありNoだ。だが時は満ちた。ぼくは下半身をホモサピエンスよろしくとばかりに開放した。そして便器に焦点を当て、界王拳5倍くらいにふんばった。座らずに。空中戦だ。

その時!

アイスクリームが溶けてタラり、とひとすじの線を作るように滑らかに垂れていくように、やつらは奈落の底へ吸い込まれていった。俺の勝ちだ。とどめを刺すようにデザートのシャワートイレも忘れることはなかった。中国四千年の歴史にも載ってない歴史的瞬間がその密室にはあった。密室故、これが歴史の教科書に載ることもなかろう。だからぼくがこうして記録している。

しかし、平穏な日々は長くは続かなかった。

一時代を築き上げた気でいたがやつらは「生きている」。そう順応してきたのだ。どうする、もう方法はない。厠が怖い。そう思うようになった。。。

--------「ウォシュレット™をやめると痔がなおるらしい」--------

悪魔のささやきか、天使の伝言か、それはわからない。しかし、シャワートイレとったらぼくには何が残る?富?名声?力?それほどなくてはならない「力」であったのだ。

「できない!ぼくにはできない!」

ただ、トイレには行きたい。トイレの神様がいるのならばどうか助けてほしい。人間と神々が手を取り合っていたあの時代のように。西ドイツと東ドイツになる前のころのように。平和な時間をぼくに届けてほしい。

その日ぼくはシャワートイレをやめた。

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