子育てをきちんとやればやりたいことが実現する

娘が1歳5ヶ月になった。

2018年の6月に誕生してから、娘との共同生活がスタートした。

2019年は子育てに集中し、何もかもがそっちのけになった感がある。

ところが、不思議と前に進んでいる感がある。

感なので、確かな実態ではないのだけれど、人間として成長しているような気がしている。

よくある話では、子どもの純粋さが昔の自分を思い出させてくれるとか、どんどん成長する子どもを見て自分もがんばらなきゃと思うといったことを聞く。

ただ、その類ではない。

たとえば、娘と積み木で遊んでいるとき、娘は私に「これを置いてー」と積み木を渡してくる。

渡された積み木をどんどん積み上げていく。

それを崩すのが好きなようである。

お知らせのあったスマホを手に取り、LINEを開く。

娘が私に、積み木を渡す。

私は、スマホをいじりながら、積み木を積む。

するとどうだろう、娘は怒るのだ。

動作としてはまったく同じことをしているのに、「スマホをいじりながら」積み木をすることに、娘は怒るのである。

私は、娘が何を持って繋がりを把握しているか、このときなんとなくわかった気がした。

親が自分に向けている意識である。

この意識が薄まったとき、敏感に反応するようなのだ。

映画やドラマで「お母さん、僕は生まれてきちゃいけなかったの?」と聞いてくる以前の、子どもがひしひしと感じているものだ。

確かに、動作には念が込もる。

そして、雑念は動作を乱す。

乱れた空気は、まわりからはすぐにわかってしまう。

うまく隠せていると思っている本人を除いて。

15年続けたバスケでは、雑念が入ったときのシュートは入らなかった。

勉強でも、雑念が入ると単語が覚えられなかったり、複雑な問題を考えることすらできなくなった。

こうして文章を書くとき、今晩のおかずやタスクのことを考えだしたら、「書く」ではなく「書かなきゃ」になる。

動作に念が込もったとき、いわば集中しているときというのは、動きに無駄がなく、思考回路も澄んでいる。

娘は、積み木を積む動作について、敏感に肌で感じ取っているのではないだろうか。

最近ではますます、娘のライバルはスマホになった。

親の思考を奪う、娘にとっては敵なのである。

娘は純粋なので態度で示してくれる。

しかし、社会ではこうはいかない。

空気を感じたらその瞬間、裏で噂が流れるかもしれないし、評価が下がるかもしれないし、SNSで蚊帳の外にされるかもしれない。

念を込めて話しているか、確かに見られている。

ただ、この雑念時代においては、他のことを考えながら人と話す人というのは本当に多い。

聖徳太子レベルの人でなくては、なかなか別の交信をしながら目の前の人と話すのは難しいであろう。

目の前のことに集中できる人というのは、この時代において既に「優れた人」となると思っている。

話に集中していない人はバレている。

なので、仕事にしろプライベートにしろ、目の前のヒト、コトに集中すればいいのだと思う。

そんなことを、娘は教えてくれた。

子育ては、なんとなくやっているとただ大変なだけかもしれない。

ただ、なかなか豊富な引き出しを持っている。

やりたいことの実現のためには、「知る」だけでなく、こうした体感で自分に落とし込むことも必要だと思っている。




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