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ホームシック衛星での藤くんのMC(ビラの話)について

本日BUMP OF CHICKENのライブツアー
ホームシック衛星に参加してきました!

忘れないうちに書いておこうと思ってメモがてら書いています。

アンコール後の最後のMCで藤くんはこんなことを言っていました。
(記憶を元にこんな感じだったという内容を書いています)

俺が書いている歌は街に落ちてるビラみたいなもので、ゴミみたいな物なんだ
でも、それを拾って何が書いてあるんだろうと読んで必要だと言って綺麗に畳んでポケットにしまってくれた
だから歌は価値を持ったんだ

4/17公演MCより

私はゴミでは無いだろうと思いましたが
ここに突っかかると話が前に進まないので
置いておいて

この話はシュレディンガーの猫に似た話なのかもしれないと思いました。

※シュレディンガーの猫とは


作り手がいくらいい歌を書いても
聞き手がその歌を観測するまで
その歌の存在は確定しない

猫の場合と異なる点は
生と死が同時に存在することが問題では無く
単純に存在が確定しない状態は
存在しない状態と同義という点です。


歌の存在が確定しないと言うことは
人々に取っては見向きもされない
価値がないものとなります。

作っただけで誰にも見せず燃やしてしまった楽譜は、本人にとっては経験とかになっているかもしれませんが、聞き手(受け取り手)としては認識すらしていないので無価値です。

それを比喩を使って説明したのが
ビラの話だったのです。

聞き手が見向きをしなかった場合
街に転がっているビラと同じで価値を持ちません。

ビラ(歌)は手渡しされるのではなく
一度床にばら撒かれる
聞き手がそれを拾うまでの間は無価値になっているということです。

もちろんビラ(歌)を作る工程が無いと始まりませんが、拾うという工程が無い限りは価値のある形として完成しないのです。


個人的にBUMPの楽曲は
歌詞とメロディーでは未完成で
聞き手(受け取り手)の経験やそこからくる感情が乗ることで完成するのではないかと思っています。
(disでは無く楽曲として究極の姿だと思っています)

そういう意味でも
聞き手(受け取り手)が
ちゃんと拾って慈しむことで
ベストパフォーマンスを発揮する
BUMPの楽曲は、作り手と受け取り手の共同作業によって完成するものだと藤くんは思ってくれているのではないでしょうか。

ビラだとかゴミだとか言葉が強いのでそこに気を取られがちですが、話の本質

藤くんが言いたいことは、

聴いてくれる人がいるから
自分たちの歌は価値を持った
だから、
あなたが生まれてきてくれて
楽曲を見つけて慈しんでくれて
ありがとう

ということなのではないかと思います。


個人的には
「何が書いてあるんだろうと読んでくれて」
の所が聞いていて嬉しかったです。

BUMPではKの歌詞考察をしていますし、
星街すいせいではもっと歌詞考察をやっています。

迷惑じゃないかなとよく考えるのですが、
今回、勝手に背中を押して貰えたような気持ちになりました。


作り手側と受け取り手側
双方がダイレクトに繋がれるライブという空間素晴らしいなと改めて感じたホームシック衛星でした!


※馴れ馴れしく藤くんと書いてしまっています、すみません。神様みたいな存在です。


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