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ホシノちゃん、死ななくてよかったね、殺さなくて済んでよかった、の話(続き物)と他先生の解像度とか(ブルアカ)

ブルアカの対策委員会のフィナーレを見てからの感想です。
(前回の記事からの続き物です)。

※この記事はブルーアーカイブのストーリー「対策委員会編」の重大なネタバレを含みます。



1週間弱前にシナリオ更新前に書いた記事を読んでいただければ、より今回の解像度が上がるかな・・・?と思います。ぜひ・・・よろしければご一読いただければ幸いです。


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〇簡単に前回の「自分が先生なら、ホシノちゃんを殺しちゃうかもしれない」という話の内容について

詳しくは前回の記事を読んでいただければ幸いなのですが・・・簡潔にまとめると、「過去」にとらわれてしまっているホシノちゃんがいて。ホシノちゃんが救われる方法としたら・・・ホシノちゃん自身が「折り合い」をつけることがベストなんじゃないか・・・って言う話で。只往々にして自身で「折り合い」をつけるのは難しく、じゃあ他者(「先生」とか後輩のみんなとか)が何とか救えばいいじゃない、と思ってもこの手の強い「過去」に縛られた人は往々にして救うことが難しくて。救いのつもりが地雷になることは往々にしてあり、それでも助けようとする他者がいるのであれば「信用」等すべてを賭けた上での一発勝負のカードを切らなければならないよね、といった話をしました。実際その10枚の選択肢のカードのうち9枚が地雷、あるいは100枚のうち99枚が地雷のカードの中からあたりを一発で引くのは難しい。相手によって正解のカードは違いますし。そんな無謀ともいえる賭けをするくらいであれば、「そもそもその一か八かの勝負をしない」という選択肢もあると思っていて。自分が仮に先生だとするならば・・・その立場にあるとするならば・・・その勝負をすることはできないかもしれないと思っているのです。でも心が壊れてしまい、テラー化してしまっているホシノちゃんをそのままにしておけば・・・世界も壊れて崩壊してしまうかもしれない瀬戸際で残された時間も無くって。だとするとすれば・・・自分がとるかもしれない選択肢の一つとして「介錯」といった意味合いでのホシノちゃんを「殺す」事を選択してしまうのかな・・・と言った話です。もちろん結果から見れば「最善の選択肢」ではないのかもしれない。だけど・・・ホシノちゃんが「手帳」でこちら側に歩み寄ってくることが無ければ・・・その「現場」と「状況」で自分がとれる、取りうる選択肢は「それ」しかなかったのじゃないかな。と思っているのです。
その状況、その瞬間での「最善の行動」だと思って。そういった内容の記事でした。


〇ホシノちゃん、折り合いつけようと頑張れた。

これは本当・・・・・・・・・・・・によかった。「手帳」は結局見つからなかったけれど、ずっとずっと抱え込んでいた「後悔・自責の念を多分に含んだ過去」に対して「折り合い」を完全につけられたとは思わないけれど、「折り合い」つけようと前に進んでくれた。そこが本当に良かった。クライマックスのシーンにおいて、「ユメ先輩(≒過去)」と「対話」するようなシーンがあったけれど・・・あのシーンでの「ユメ先輩」は特別な力で「あの世から今のホシノちゃんに対して干渉してきた存在」じゃあなくって、「ホシノちゃんの心の、過去の中にいるユメ先輩」と対話したんだろうなと解釈しています。この解釈は人によって解釈が分かれそうではあるけれど・・・少なくとも自分はそういった「人が生き返ったりするようなありえない」「奇跡」は無いと思うのでそう解釈しました。過去を捨ててもいいし、捨てなくてもいい。引きずってもいいし、どう「折り合い」をつけてもいいんですよ。だから・・・「折り合い」をつけようと一歩進めたホシノちゃんは後輩たちの助けがあったとはいえ、強いなあ。よかったね・・・、と思います。実際心の8割前後を「過去」にとらわれてたんでないかなーと思っていたのです。ホシノちゃん。で残った1-2割が後輩たちだったり「先生」だったりするのかなって思っていて。過去に「折り合い」をつけようとすることができたことで、心の1-2割にあった今を生きている「人たち」に目線を向けることができた。だからテラーから戻ってこれたのかなって思うんです。よかった。ホント、良かったねって感じです。きっとこの先生きていくうえで、時折「ユメ先輩(≒過去)」のことをふっと思ったり頭をよぎることはあると思います。ホシノちゃんはそのたびちょっと苦しくなったり、悲しくなったりするかもしれない。だけど「折り合い」をつけるよう進むことができたから、もう「とらわれる」事は基本的にはないのかなと思います。(ここで「基本的」といったのは、現実世界では再度「とらわれちゃう」人もいるケースがあるだろうということから・・・です)。
ここからは個人的なコーピングの方法・・・なのかは分からないんですが・・・。
個人的にはそういった「過去」については捨てなくても良いんじゃないかなって思っていて。だって辛く悲しい「過去」であっても「大切」だったわけだから。でも常に、24時間に近しい時間ずっとそれに思い悩むのは「疲れる」ので、「たまに」思い出してあげるくらいがちょうどいいのかなって思います。これは「片岡とも」先生の死生観の影響が強いです。つまりまあ・・・受け売りなわけですが・・・。「たまに」思い出してあげるくらいが・・・お互い・・・幸せなんじゃないかな、ベストなんじゃないかなって思うんですよね。ホシノちゃんが今後「過去」とどう付き合っていくかは分からないし、どの選択も正解だと思います。だから・・・あくまで個人的なコーピングの仕方を書きました。ホシノちゃんの内心は後はプレイヤーの各自の想像にお任せってことなのかな、と思います。
※「片岡とも」先生の「Narcissu」はぜひ無料なのでやってみてほしい名作です!またいずれそれについても記事を書きます・・・。

〇シロコテラー(クロコ)ちゃんと「気持ち、わかるよ」について

クロコちゃん、今回の登場時「私も同じ経験をしてきたから気持ちは分かる」って言いましたよね。これは前の記事でも書いたんですけど、それは「超鋭利な言葉のナイフ」だと思ってて。蒸し返す、同じ内容で申し訳ないのですが、人間は絶対に同じ人間になることはできなくて。生まれや育ち、取り巻いてきた環境や気質等全てが違います。たとえ仮に同じ人生を追体験できたとしても違う気持ちになる可能性は十分、いや多分にあると思います。
その苦しんでいる(今回のケースではホシノちゃんが該当します)人に対して「私も 同じような 経験したから 分かる」ってセリフ。これは・・・禁句に近いもんだよなあって本当に思っていて。「分かる」って言うよりは「分かろうと努力する」って言い方が個人的には正しいと思っています。同じ人間にはなれないからね。
勿論、日々の他愛もない会話の中で、相手への共感として「気持ちわかる~」ってのは結構使っていいセリフだと思います。私も使うときがありますし。大事かなって思うのは「重要度の違い」で。今回のケースでは相手の「根幹」というデリケートな部分に触れるような状況にあったわけで。その際に「気持ちわかるよ」っつーのは結構リスク高いと思っていて・・・。「お前に私の気持ちの何が分かる!!!!!」って言われたらおしまいです。だってその通りですから・・・。
繰り返しになっちゃうんですが、「同じ立場には立てないし、100%気持ちを分かることはできないかもしれないけれど・・・分かろうと努力することはできるし、歩み寄ろうとすることはできるんだよ」といった姿勢が大事なんではないかなあって思うんです。これについては・・・個々人いろいろな意見があると思うので、自身の意見が正しいとはあまり思いませんが・・・。

あと、「過去」にとらわれ続けてましたね。クロコちゃんも。でも今回のケースで「折り合い」つけられたかはちょっと正直クロコちゃんはできたかわかりかねるんです。ホント一歩進めたかというと、実際のところ進めたというよりは「進む意思」がちょっと芽生えたかなってくらいで・・・。その一歩・・・としてクロコちゃんは・・・みんなの武器を捨てたのかな。彼女は「過去」をある程度「捨てる」事でコーピングというか・・・「折り合い」の一歩をエピローグで踏み込めたのかな、と思います。只、武器捨てちゃった行為が本当に彼女の「心からの」行為かどうかはちょっとわからない。納得したうえで「折り合い」の為に捨てたかがちょっとあの描写だと分からない。個人的にですけど・・・。もちろん物的なものを捨てたとしても、いない後輩たちを忘れなければ「過去」を捨てたという意味にはならないと思います。でもちょっと「無理」してそうな感じはちょっとだけ感じていて。今後どういう動きをするかは気になるところです。結構「無理してる」んじゃないかって思ってます。本当に個人的にですけれど・・・。でも本当に頼っていたプレナパテス先生はもういないわけですし・・・頼る相手もまだハッキリわかりかねてるんじゃないかなーって思うんです。またいずれどこかで深掘りされるのかな。

〇「先生」について

ちょっと「人間味」が出たというか、個人的には今までの先生像(かっこいい言動してるときの先生を指してます)としては、「理想的で」「最善の結果を常に出す」、理想の「ヒーロー」みたいな感じで、私という自分とは全く違う存在としての「ヒーロー」すぎて、正直苦手・・・というより「嫉妬」や「羨ましさ」があるキャラではありました(前の記事でも言及はしています)。
私は泥臭く進むことしかできないし、後ろ向きに考え思い悩みながら・・・地べたを這いつくばって、石にかじりついて何とかその場でできうる最善だと「思う」事をし、後ろ向きながら前に進むことしかできない人間で・・・。「先生」は確かに思い悩んだり苦しんだりすることはありますが・・・「最善の選択肢」を選べる点で「凄いな」「羨ましいな」と思ってしまうんです。
でも今回、どっちかというと「先生」が「物語の中心」となってホシノちゃんを助けるというストーリーではなかったので、ちょっと「安心」と先生に対する「人間味」が増しました。「先生」が「私には・・・できない」といった選択肢が出てきたことがすごく自分に「おお」とさせてくれたんですよね。「先生」も完璧で万能ではないんだなーって思って、ちょっとだけ親近感がわきました。
ただ何でもかんでも「大人だから」って理由で「責任」を背負おうとするなよ!ってちょっと思ったんです。背負いすぎてつぶれたら意味がないし、確かに本来であれば大人が背負う責任だろうとは思う・・・。だけど背負う本人がつぶれたら元も子もない。できもしない発言というか、軽率にそういう発言をポンポンする行為は・・・最も信頼を失う行為だと思う・・・のです。デリケートな話題に触れてるときは特に。デリケートな話題でのキメ台詞みたいに使用されていますが、何度も言及していますが、言うは易し行うは難しです。これは現実世界であったってゲームの世界でもそう。ゲームのシステム上、他に「頼れる」「信頼できる」大人が出てくるということはちょっと難しいのかな?と思うところはあります。(生徒が殆ど女の子であったり、他のキャラは機械だったり動物?だったりするので・・・いわゆる他の「竿」持ちが出てくると解釈とか問題が出てくるのかな?といった理由で・・・)。
勿論「描写」がないだけで「先生」はきっと「責任を取るための」行為はきっとしていると思っています。そういう「行為」は事の成否より「過程」を重視すべきだと思うし、その「行為」または「活動?」が生徒からの信頼につながっているのかな、って思います。
無理するなよお、「先生」。まあ徹夜は命削るからやめようね~~~。

〇大人の「責任」ってさ

これ、Twitterでもちょっと触れたんですよ。なんでここまで重要なチャプターにおいて「子供が責任を負うような問題じゃなく、これは大人が本来負うべき責任だから」というフレーズがよくつかわれるのか・・・。
実際の現実世界、我々が生きてる世界ですよね。その世界において本来であれば「大人が負うべき責任」が果たされていないというか・・・「子供が責任を負っちゃうような状況がある」からこそのこのゲームにおけるテーゼ(命題)なのではないかな?と思います。個人的にですが・・・。
確かに大人っていろーんな責任が付きまといますよね。それはでも人によって責任の重さも違うと思います。職業然り・・・家庭があったり・・・いろんな要素で責任の量も重さも変わると思っています。

あなたは・・・自信をもって「大人としての責任を背負っているよ」って言えますか?
実際のところ・・・本当に強い「責任」を負っている人ほど・・・「自信がない」って言うんじゃないかな?って思うんですよね。只その「責任」って言葉は・・・すごい抽象的であいまいなものだと思っていて・・・。人によって考える「責任」は違うと思うし、直面している「責任」によって内容も変わる。
となると・・・あまりに「抽象的」すぎるよなって思うんです。
あとそれ・・・本当に「背負うこと」できますか?ってのもあって。世界的に見てもメンタル系疾患は増加の傾向をたどっていますし、本邦日本は特に昔っから「うつ病大国」ですよね。無理して背負って「病んでしまう」のは元も子もない。ゲームの中の「先生」とか創作の作品では体力とか、精神性とかのパラメータが見えるんですよ。だけど現実世界における我々はステータスバーも見ることもできないし適性も見ることもできない。だからメンタルケアとかも含め「不安定さ」が非常に強いと思うのです。
前小見出しにも書いた「先生、背負いすぎるなよ」ってのは実は「先生」というよりは私たちに向けた「セリフ」でもあるんです。そのつもりで書きました。
これからの未来を担う子供たちに「大人としての矜持」だったり「大人としての責任」を果たすことは大事だと思います。ただし一人で何もかも背負うのではなく、自分のキャパシティをある程度把握したうえで「できる最善の」「大人の選択肢」を取るのが、こと現実世界で生きる我々には大事なのかな?って思います。
皆がみんな、すごい心が強いわけではないですしね。これについては・・・自分の生きてきた境遇も含めていつか記録したいと思っています。
纏めると、大人の責任は確かに負う必要はあると思う・・・けれど、キャパシティを把握したうえで無理せず負うのがベストじゃないかなって思いますって感じです。

ただ、めっっっっちゃ大事だなあって思うのは、誰かが「背負わなければならない責任」として個人の問題にするんじゃなくて、社会の「システム整備」によって「子供たちが生きやすい世界を作ること」がこの問題における「最善?というより最適解」なんだろうなーって思います。

〇補足:結果から見る「最善」とその瞬間の「最善と思われる行動」について

なんで「殺す」のよ?って話になると思うんです。だから本題の前にちょっと補足しておきたいことがあって。現実世界でのお話になるんですが・・・。
2024年現在、日本の司法とかも含めて、いろいろな場面で「結果」から見て「物事に対する行動」を評価し、正しいか間違いかをはかっている気がします。正しい事・・・なのかもしれません。でも実際はそう簡単な話じゃないよってことをまず話したくて。
自分の仕事領域の話で申し訳ないんですけれど(医療)、最近・・・というかコロナ禍の最中~Post、Afterコロナ(実際はコロナは明けていませんが・・・)以降、我々医師あるいは病院を「訴訟」する案件がめちゃくちゃ増えたなあと思う節があります。そして「司法」が結構「結果」だけ見て判決下して医者とか病院が負けるんですよね。アレは正直やってて精神削られる。実際「貧乏くじ」じゃんって思うところがあるんです。詳しく話すと・・・
医療行為において、このようなことわざがあるんですよね。「後医は名医」ってことわざ。これってつまるところどういうことかって言うと、ファーストタッチで見たドクターよりも、あとから(ある程度結果が予測できているため)見た医者の方が正確な診断だったり治療ができる、といった意味のことわざです。これは正しいことでしょうか?

実際は違います。医療行為って実はすごーーーーーーーーく難しいんですよ。患者さんはいわゆる「症状」で病院に来ます。あるいは救急車とかで担ぎ込まれてきたり、Walk inで救急外来に飛び込んできたり。でも分かっているのは「病名」じゃなくて「症状」なんですよ。腹痛とか、頭痛とか、背中が痛いとか、めまいがするとか・・・痺れがあるとか・・・。そこから採血(採血して調べる項目も基本的には医者が必要だと思った項目をチョイスします)したり、画像(Xp、CT、あるいはあまりやらんけどMRI・・・これも必要だと思ったら我々が「選んで」行います)を撮影撮像したり・・・。問診したり身体診察したりして、大体の病気の「あたり」をつけるんですよね。「症状」から想定できる膨大な数の「病気」から一つ「答え」を見つけるよう努力するわけです。実際の答え合わせは「結果」が出てみないと分からない。そういう「不正確さ」の中で日々の医療は行われているのです。
「はっきりとは確定診断できないけど、現状〇〇っぽいな・・・」くらいの「あたり」をつけるんですよ。もちろん教科書的な「これぁ〇〇だな!」って感じの病気も結構ある・・・けれど、「正直はっきりと今現在だとわかりかねるな」ってことは結構あります。特に夜間とか休日、長期休暇とかの医療リソースが限られているときは特にそうで。患者さんのおでこに「私の病気は〇〇です」なんて表示されたら便利だなあって思うけどそんなこと絶対あり得ないですよね。夜間の救急当直なんて、医師たった一人で次々くる救急車をさばいて、並列で患者さんを診て「Aさんは〇〇だろうな、だから帰宅でもいいかな」「Bさんは●●かもしれん、まずいからオンコールの先生を呼んで緊急の処置が必要だろう」「Cさんは~~」といったような感じで、その「現場とその状況」において自身が「最善だ」と思った行動をするわけです。私たち医師は当たり前だけど「人を殺そう」なんて思って治療はしない。最善を、最善を尽くそうと思って行うわけですよ。で、結果として「その状況では最善の行動をした」と思っても「結果」が悪い方向に行きつくことはあります。冒頭で述べた「貧乏くじ」ひいちゃったパターンですね。その「結果」から判断すれば確かに「あの時ああすべきだった、こうすべきだった」と評価はできますよね。だけどそれはたられば論であって。いくら腕が良い医者でもそういう悪い結果に行きつくことはあります。そこを「結果」から見て訴訟されたらこちらとしてはたまったもんじゃない。「過程」を評価しろとは言わないけれど・・・「結果」のみから物事の正否を決めるのって、本当に正しいの?って常日頃思うわけです。すべての業界に言えることではないと思うんですけど、逆もまた然りで、そういった「結果」のみで判断することは全ての業界に「あてはまらない」ってことを分かってほしくて書きました。

だからまず前提として長くなりましたけど、ホシノちゃんを「殺す」事は「結果」から見れば悪い事なのかもしれないけど・・・その瞬間、その状況において取れた最善だと思う行動が「それ」だと思ったのだとしたら・・・それは仕方がないのことなのではないか・・・と思うわけです。独特の価値観でしょうか?

〇終わりに

対策委員会編とてもよかったですね。毎度ながーい文章になってしまいますが、前回の記事が結構自分が想像していたよりも多く見てもらえたのがちょっと嬉しくて。今回も記事を書きました。相変わらず自分の脳内の整理もかねての吐露のような記事なので、読みづらい部分等沢山あると思いますが・・・、ここまで読んでくださった方がいらしたら、ありがとうございます。それでは!


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