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夢という言葉と無敵感、そして「なりたかったもの」、「なりたいものがわからない」「なりたいものになれなかった」ということ。

「ゆめ」、「夢」という言葉ですね。
この言葉は・・・二通りの意味があると思っています。
私たちは例えば・・・眠っているときに「夢」を見ますよね。いわゆるノンレム睡眠ではなく・・・「レム(Rapid Eye Movement)睡眠」の時・・・脳が記憶整理のために見るような・・・いわゆる「一過性」での「夢」と。
もう一つは・・・「将来の夢」のような・・・自身の「なりたいもの」とか「手に入れたいもの」とかを凡そ代弁するような・・・それこそ小さな「規模」から大きな「規模」のものまでを指す・・・「夢」のようなもの・・・があると思っています。

どちらも儚いでしょうか?前者は確かに「儚さ」があると思いますけど・・・。後者はどちらかと言えば、「希望」に満ち満ちたものではないかな?と思います。同時に「呪い」にもなりうるものとも思います。

今日はそんな「夢」の話を一つ・・・!


〇10代の、特に10代前半の頃の・・・いわゆる「無敵感」って

前提として「悪口」のつもりで言ってないし、「悪意があって」言っているわけではないことを前提に読んでいただければと思います。
見出しにあるような、そういった「無敵感」ありませんでしたか?
「自分は何にでもなれるんだ」って言うようなあの感じ。
「小学生のころ」から・・・物心がつき始めたころの・・・純粋無垢な感じの頃から変わって、中学生あたりに入ると世の中のこともわかってくるようになって・・・。テレビとかインターネット、SNSから情報を積極的に摂取するようになって・・・。いわゆる大人の第一歩というか思春期に入りますよね。
この記事を読んでくださっている方がいらっしゃれば、いままさにそういう状況にいる人もいれば、そういう「時期」は過ぎている人もいらすと思います。過ぎている人から見れば「そうだったかも?」って思っていただけるのではないでしょうか?
小学生とかの頃って、「~~になりたい!」って純粋な気持ちで言ってると思うんですよね。今ならYoutuberとかも含めてパイロットとか医者とか弁護士とか。女の子だったらアイドルだったりパティシエさんだったりしますよね。
中学校に入って思春期真っ盛りになると・・・「なりたい夢」とか以外にも「~~したい!」とか、「将来はめちゃくちゃ稼ぎたい!」とか、「将来はめっちゃイケメンの人と結婚したい!」とかそういったうっすらとした欲を含めた「なりたい・したいこと」が出てくるのではないか?って思っています。そういったころ、本当に「そうなれる」、とか「そうなれるだろう」みたいなぼや~っとしていて抽象的というか具体的なイメージはないけれど「自分ならできるだろう」って気持ちが割とあるんじゃないかなあって思っています。ガチガチのリアリストみたいな人ってこのころの子にはいないって思ってて。そういう「根拠はないけど自信はある」ということからそういう「無敵感」が出てくるのではないかな?と思っています。重ねて言いますけれど、「悪口」じゃないです。だって私もそうでしたし、年代的にそういう割合の子がとても多いから「必然」だと思っているから言っているのです。
実際、「本質」を言えば、「可能性はゼロじゃない」ですよね。何にでもなれる可能性をはらんでいるわけで。実際そこからなりたい・したいことを成し遂げることは優にできる年齢なわけですよ。だからそういう年齢バフみたいなものも含めて、そういった「無敵感」を得るに拍車をかけているのではないかな、と思います。
でもその「無敵感」こそが「青春」の何割かを構成してるのじゃないかな?って思います。
あと、「無敵感」には「なんか自分の人生はまあうまく行くだろう」的なものも含めて・・・いわゆる「なりたいものが分からない」って言う悩みもそういった無敵感バフがあるから故に「選べない」ことから来るものじゃないかなって思ったりもしています。

〇その「無敵感」の終焉。

いつかは「無敵感」って終わると思うんですよ。思うというか確実に終わるはず。大きな壁にぶち当たるタイミングって10代の頃って大体ありませんか?その壁を打ち破れるか否かはその当人次第ではありますが・・・。
「壁」をぶち破って突破できても、ぶち破れず打ち負かされてもどっちも関係なく、「壁」に直面することが「現実を知る」事になると思っています。
ここでいうところの大きな「壁」というものはいわゆる受験であったり、恋愛、部活動とかの大会・・・他あるとすれば就職活動とかもそうかなあって思います。そういった類の奴ですね。
これって総じて「自身」のみで帰結するものではなくて「他者」の存在と介入があるイベントだと思うんですよね。だから自身の思った通りには行かない可能性があるわけで。そういう意味で「自身」のみの世界ではたちいかないものとして「壁」と言いました。そういった「壁」にぶち当たった時に、大体おのれ自身の現在のスペックだったりとかを自覚するんじゃないか?って思うんです。いわゆる・・・自分は「世界」から見た主人公ではなくって・・・「世界」から見ればモブの一人に過ぎないんじゃないかな?って自覚すること。
勿論「自分の人生」に絞ってみてみれば、自分の人生の主人公は偽りなく「自分」だと思います。それは揺るがないけど・・・、「世界」を見て、つまるところ客観的な世界では自分は「主人公」じゃあ現在のところはないなって思うんじゃないかと思うんです。それが一つの・・・「無敵感」の終焉じゃあないかなって思っています。この「無敵感」の終焉は人によって終わる時期は様々だと思います。早い子は10代前半で分かったりもするだろうし、20代の人とかもいるんじゃないかな?って思います。
私自身は・・・15歳くらいの頃に「ああ・・・自分は今このままだと理想とする自分にもなれないな」ってなった記憶があります。

〇自分の体験と合わせて「無敵感」と自分で掛けた「呪い」について

そういった「無敵感」から来るときに思った「なりたいもの・やりたいこと」とかって、自分の場合結構自分自身をむしばんだんですよ。言ってしまえば、「無敵感」≒「大言壮語」であって。実際できもしないことを・・・憧れとか希望とかそういったものだけで、「できる」つもりで口にする。だけど現実を知ってしまった後は・・・「無理だなあ」って思っちゃったりする
結構キツイ思い出があって。私が高校時代、全くいい思い出はないんですけど、そのころから「医師」になりたいっていわゆる「なりたいもの」があって。同期の友達たちの中にも「医師」を志す人は多かったです。みんな私より頭がよくって。私は・・・まあ全然頭は良くなかったし、周りについていくのに精いっぱいで、ただの地方の自称進学校程度の存在の中でついてくのが精いっぱいだとしたら・・・「医師」になるための医学部なんてまあ難しいですよね。もしかしたら塾とかにガンガン通ってたら(高校時代は塾に通っていなかった)、違った未来もあったのかもしれないですけど・・・、私は実際高校3年生の受験末期でギリギリ医学部医学科受けられるくらいには努力して伸びたんですね。ホントにギリギリですけど。そのころには・・・高校時代の初めのころ「医師」になりたいって言っていた友達たちの成績を追い抜かし、それでも一次試験(センター?共通?)受けるまでは「私・俺は医師になるから、浪人してでも」ってみな口々に言っていたのを思い出します。で実際に一次試験が終わった後・・・自己採点の結果から・・・すっとみんな「医師になること」は諦めて、他の学部に出願してました。その時私は「数日前の発言はどうしたんだよ!」ってすごく強く内心思ってしまって。自分は今ならその気持ちがすごくよくわかるくらいには大人になって、きっと皆も「そうなりたかった」はずなのに、きっと「現実」を見て、直面して「諦める」という選択肢を取ったんじゃないかなって思います。でも当時の自分はそれが「許せなかった」。ガキですよね、考え方・・・。「口だけじゃないか、あんなに偉そうにしてたのに」「お前には無理だって私に言い続けたのは・・・皆じゃんか・・・」って思ってしまって。意固地になってた部分もあると思うんです。だけど私は現役時代にそれでもギリ受けられたので医学部受けてまあ失敗して・・・浪(Low)人となるわけなんですが、浪人はきついんですよね、そして過去に自身が思ってしまった「口だけじゃんか・・・みんな・・・」って思ってしまった怨嗟の思いが自分にも呪いのようにかかって、「口だけの人間には絶対になりたくない・・・」って呪いと、「(価値のない自分がこの先生きるためには)夢を絶対に叶えなきゃいけないんだ」という将来の夢(呪い)のダブル呪いを自身にかけた結果、まあ自身の命なんてかなぐり捨ててでも何とかするぞ!ってくらいの言ってしまえば「頭のおかしい」人間が爆誕したわけで。2浪(2-Low)したんですけど・・・何とか受かったんですよね。人はですね、「2浪」すると・・・一次試験の前に「成人式」があるんですよ。出席しなかったですけど。それと中学校と高校の同窓会がありましたが、高校の連中にはとても顔合わせられないしそもそも行きたくないし会いたくなかったので高校の同窓会はいかず、中学の同窓会だけ行った記憶があります。そこで見たのは、「年齢相応に」「いろいろと落ち着いた」大学生または社会人の友人たちがいました。あのころ「●●になりたい」といっていた人たちが別の職業についてたり、「アイドルになりたい」とか思っていた子がお水の職業についていたり。いろいろと自分の中で「ガーン!」って来たんですよ。「みんなあの頃の無敵感はどうしちゃったんだよ!」って。みんな夢があったはずなのに・・・あれだけ皆に声高に、大きな声で言っていたのに・・・今はこんなになっちゃったのか・・・これが「大人になる」ってことなのか・・・?って結構ガッツリショックを受けたことがあります。「MARCHとかクソ余裕だろw」って言ってた子が日東駒専以下になっていたりね。
それでも人は生きていかなきゃならなくって、みんなちょっとだけ、ちょっとだけ瞳の輝きが薄れていたように見えて。きっとそこで自分にかけたダブルの「呪い」を解くこともきっとできたんでしょうけど、当時の自分にはそれが出来なくて。結局「とっくに自分は失った無敵感」に縛られたまま頑張り続けるマシーンになるほかなくって。結局そのあと何とか実を結び医学部医学科に進学するんですが・・・。
やっぱりあの同窓会の時の「キラキラ」してた友達が「落ち着いてしまってた」のはショックだった

〇「なりたいものになれなかったということ」と「夢はいつだって遅くないと思う」こと。

みながみな、なりたいものになれればいい世界ですよね。やりたいこと、成し遂げたいことを成し遂げられればいい世界ですよね。でもそれは実際無理な事であって。パイは限られた数しかない。だからどう頑張っても誰かはあぶれてしまう。そこで「なりたかったもの」とかに「なれなかった」人の方がきっと・・・この世界には多いのだと思います。ある意味で昔の自分に「折り合い」をつけて、生きる。それが・・・人生なんじゃないかなって思うんですよ。大多数の人にとっての人生。でもそれは決して不幸なんかじゃないと思ってています。だってほとんどの人がそうなのだから。すぐに割り切れなくとも、いつか「折り合いをつける」ことができるときが来るんじゃあないかなって思うんです。
それに思うのは、「遅いってことはない」って思ってて
そりゃあ、「無理」な出来事はあったりすると思うんですが・・・。「なりたいものには遅いことはない」と思ってて。大人になったから・・・と言っても「夢をあきらめる必要はない」と思います。
でも・・・「背負うもの」ができたりして・・・自分の存在が「自分のものだけじゃない」とかになったりして・・・そういった意味合いも含めると難しい部分もあるかもしれないですけれど。
自身の夢を追い続けるのは遅いってのはないんじゃないかなあって思います。もちろんハードルは年齢を経るほど上がると思うんですがね・・・。

〇将来の「夢」と折り合いと「視界が広がること」で変わる夢。

「夢」を追って頑張ることはすごい良い事だと思っています。もちろん「夢」が明確にないことが悪いとは全く思っていません。「夢」がある人と無い人の優劣は全くないと思っています。無い・・・と言ってもこれから「見つかる」「見つけられる」かもしれないし、優劣なんてつける必要全くないですよね。
そして・・・「夢」を追う事って「遅い」は無いと思います。大事なのは・・・「自分」がやるかどうか・・・ということで・・・。
でも「なれなかった自分」に折り合いをつけて、生きていくことも大事だと思うんです。どう頑張っても「できない」可能性はゼロにできないわけですし。
そして書いていて「大事だな」って思ったのは、年齢を経るにつれて「視点が広がったこと」「見える世界が広がったこと」によって自身の「興味」が「別のもの」になること。これによって「そちらの望んだ道に進むこと」ができるようになることもきっと「大人になること」だと思うんですよね。実際そういった人たちは沢山いると思います。

〇終わりに

大人の目線に立ってやっと、私もそういう「折り合い」の目線をやっと考えられるようになり・・・脳内の整理もかねて今回の記事を書きました。
そして私もまだまだ夢があって。自分ももう一度大学に行きたいなって気持ちがあって。動物や海(を見ること)が好きなので、動物または海の生物を「研究」する大学で知識をつけたいなあって夢はあります。これもまた、「年齢を経た結果広がった世界」で思った事かもしれないですね。

締めとして・・・の文章としては・・・「パイの数が限られていたとしても」・・・、「世界の人々が望んだもの」になれますよう・・・日々祈ることは続けていきたいと思っています。
「なりたいものにならなくてもいいんだよ」なんて私は言わない。言えない。みんな頑張ってほしい。もちろん無理せず、頑張ることにつかれたら休む事も大事だし。だけど・・・皆が皆、「なりたいもの」になれる世界であってほしいと日々願って生きています。





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