【Netflix】「今、私たちの学校は」から見る、私たちの生きる意味とモチベーション(ネタバレ含む)
華金からネットフリックス「今、私たちの学校は」をのほぼノンストップで見ている。残すところあと2話だ。また気持ち悪いゾンビドラマかと思って見始めたが、意外にも考えさせられる物語だ。
非常に大まかなあらすじは、いじめられっ子の息子を持つある理科教師が息子を「強く」するために作ったウイルスが、韓国のとある学校から広まってしまうというものである。そのウイルスに感染したものはゾンビになり、ゾンビは生きた人間の血や肉を欲する。ゾンビに噛まれた人間は、原則として心肺機能が停止するが、ウイルスによって脳をコントロールされゾンビとなって増殖する。幸いにもまだウイルスに感染していない、高校生数名がどのように生き延びていくか、それを取り巻く環境の変化を描いた物語である。
コロナ禍に製作されたこのドラマは、ゾンビという非現実的な生き物を描写しているにも関わらず、あまりにも現実世界に共通するものを彷彿とさせる。
個人的にこのドラマが面白いと思った点の一つは、一部の人間だけはゾンビに噛まれても完全にゾンビとなるわけでないというところだ。そのような登場人物は3名いる。この3名には共通するなにかがある。それは、「弱さ」というか生の世界への「憎しみ」というか「悲しみ」だ。
一人目は、いじめられっ子の女子高生ミン•ウンジ。いじめられていて、友達がいないという典型的な「悲しさ」が生の世界での弱者として描写されている。いじめっ子に裸の動画をツイッターでシェアされそうになるという具体的な事柄をきっかけに、その弱さから湧き出てくる「憎しみ」がある。ゾンビに噛まれるも、そのとても具体的で嘘偽りのない憎しみが彼女を守っているようにみえる。
二人目は、いじめっ子のハン•グィナム。いじめっ子とはいえども、いじめる側でもパシリ扱い。いじめる対象は弱いものばかりで本当の強さを手にしたことがない。いじめる側でも一番になれず、そうでない同級生たちからも嫌われている。除け者にされた弱者である。自分を虐げた同級生たちなどはの憎しみから、「殺してやる」(=自分のほうが強いと証明してやる)という具体的な行動を目標にしている。
三人目は、チェ•ナムラ。成績が常に1位だが、友人はいない。母親が厳しく、それに怯えるあまり勉強以外に何もしたことがないという。なぜかこの子だけは、善い人間の心を忘れずにゾンビやグィナムと戦う。
とくに注目したいのは最初の二人。人間に危害を加えようとはするものの、「生きている」ことに具体的な意味を見出している数少ない登場人物である。
ウンジは、ツイッターで動画を投稿される前に携帯を壊したい、いじめた子たちに復讐したい、学校を燃やしたい、この世を破壊してしまいたいと心底思っている。自分が死んでしまう前にやらなければいけないことがはっきりしている。
グィナムも同様。誰からも認められず、暴力でひた隠しにしてきた弱さを、一番理解しているのは知っているのは自分。自分を馬鹿にするものや、その味方をする者たちを「殺す」までは死ぬことができない。
良し悪しの価値判断はさておき、この二人は「死ぬ前にやらなければいけないこと」が明確にあるという点が共通している。その"to-do"への執着が、死に対する免疫機能を果たしていると解釈できる。
演劇、ドラマの第四の壁を超えて我を振り返りたい。私達はどうだろか。様々な面で私達の生活は豊かになる一方で、精神的な闇の広がりは後をたたない。「自分の人生には価値がない」「このまま生きていても意味がない」と自ら命を断ったり、うつ病になったりすることが少なくない。また、そのような病にかからずとも「やりたいことがない」とぼーっと人生を過ごしてしまう人も多いはずだ。
そんなわたしたちは、ウンジやグィナムから学ぶことがあるのではないだろうか。死ぬまでにこれだけはやっておかなければいけない。それが「好奇心」からくる何がであろうと「憎しみ」や「悲しみ」、「弱さ」からくるなにかであろうと、それは私達の人生に意味付けをしてくれるのではないだろうか。
私の「憎しみ」はなにか。これをやらないと死ねない。僕にとってそれはなにか、そんなことを考え始めた週末だった。
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