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数字と承認欲求が全て

こういった誰でも見れるようなプラットフォームに書くのはビジネスなど違う用途で利用してる方もいるとは思うが、平たく言えば承認欲求を満たしたいからではないのだろうか?

facebook、twitter、そしてInstagramなどのSNSはいいねの数やフォロワー、友達の数がその人のステータスになる。動画投稿サイトのyoutubeやニコニコでさえチャンネル登録者数や評価ボタン、再生回数がステータスになり、そのユーザーの評価に直結している。

私はそのステータスを示す数字というものが嫌いだ。何故なら私には数字がないから。ただそれだけの理由なのだが、気にしなければいい、楽しいならそれでいいと思いつつ、SNSを見れば見るほど数字というものに感情が揺さぶられている。

私の価値が

全ての数字によって見えて、決まる。

そんな怖い事が身近にある。

そんなことない、と心底思いたいが他人の呟きをみては数字が全てなのかという概念に囚われるのだ。

一時期全てのSNSをやめたときがあった。全部に嫌気がさしたのと、ネット内の人間関係が面倒になったからだ。この時間帯は呟かないようにしないと、発言には気をつけよう、など気を揉みながらしていた。

やめたときが気が楽で、一番充実した時期だったのかもしれない。

でも発信したいと思ってしまった。有名とまではいかなくても私は存在するという事を、大した才能もないけれど、知って欲しいと思ってしまった。

そこからの行動は早かった、またSNSを始めたのだ。今は携帯さえあればすぐネットが見れる。便利な時代だと思いつつ、こうやって人はネットの世界にいり浸かるのだろうなと嘆いた。

最初は楽しかった。始めたばかりで試行錯誤しながらSNSを楽しんでのめり込んでいった。いいねの数やフォロワーが増えるにつれ承認欲求が満たされて悦に浸っていた。私にはこれが出来る才能があるとかこの人よりも上だとか調子に乗ったことを考えた。その代わり自分よりも上の人を見ると言い様のない激しい嫉妬を覚えていた。簡単にいうとちやほやされたかった。

それが今はどうだろうか。中身がない事が徐々に分かり始めると周りは急激に無関心になり、ちやほやされることもなく、無意味にSNSにへばりついて反応が欲しいがために投稿する。なんて無様なんだろう。もうやめどきなのかとも思いながらも中毒患者のように手がSNSのアイコンをタッチしては見て、そっとと閉じる。


全てはただ、認められたいという承認欲求の為に。割り切れればいいのに。

他者に承認欲求を満たしてもらうより、自分自身で満たしてあげた方が絶対に心身共にいい。間違えてもただのいいねや、フォローの為に身を削ることはない。

だってネットの世界なのだから。

辞めれない私が言うのも何だが、いつでも辞めれるし、人様に迷惑をかけなければ自由だ。

何で私が辞めないのか、すっと辞めていっても誰も何も思わないのだろうという恐怖からだ。ネット内だけでいいから誰かに惜しまれたいという思いがある。だから辞めたとして、反応がないということを知ったら今度こそ全てが心が崩れるだろうなというしょうもない理由。


この悪循環から抜けれるくらい強くなりたい。

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