『いたいのいたいの、とんでゆけ』に心を破壊された話
この記事は三秋縋(敬称略)の小説、『いたいのいたいのとんでゆけ』を読破後に、その爆発した感情のまま書き殴った記事なので適当な部分も多いと思うけれど、そこはご容赦……。
あとネタバレ注意。
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『スターティング・オーバー』『三日間の幸福』と読んで、次に読む三秋作品は何にしようかと悩み、あらすじが面白そうだった本作を選んだ。
結論から言う。
この物語は読者の心を破壊する。
僕はあまり本を読んで泣くことはないのだが、今回ばかりは目が潤んだ。
三秋縋の作品に共通している所は(といっても3冊しか読んでないけど…)社会から爪弾きにされたような男女が出会い、幸福を見つける、という点だと思う。
しかし、この幸福というものが中々特殊で、それは「世間一般の幸福」ではなく、「当人たちにとっての幸福」である。
いってしまえば、その幸福は第三者目線だとバッドエンドに見えることが多い。
僕はそんな「暗闇の中の幸福」「落とし穴の中で幸せそうにしている人」が好きだから三秋縋の作品が好みなのだが……
この本はあまりにもバッドエンドだ。
後半の、あまりにも過酷な霧子の人生が描かれるシーンは、ページを繰るのが辛くなるだけでなく、遅効性の毒のようにエンディングの辛さを増幅させる。
『スターティング・オーバー』は割と清涼感漂うエンディングだった思う。
『三日間の幸福』はハッピーエンドとは言い難く、ジャンルとしてはバッドエンドだが、そこには光があった。
対して『いたいのいたいのとんでゆけ』はなんていうかもう……叫びたくなる。
救いがない。
理性的には、救いがないという表現は適切ではないのは分かるけど、感情的には「救いがない」という感想に至る。
……といっても、本当に何の救いもなかったのならこの本は僕の中で印象に残らないだろう。
それは、ただただ「辛いだけ」の物語だ。
最低な人生を送ってきた霧子にとっては、例え殺されようが瑞穂の存在は救い以外の何物でもなかった。
そして、瑞穂にとっても霧子は同じような存在だった。
だから、最後のシーンで「<あれ>は、優しい嘘なんかじゃなかったらしい」という言葉が出てきた。
明確に、絶対に、そこには愛が存在したのだ。
それにしても、三秋縋という作家はエンディングを書くのが尋常じゃなく上手い。
この物語の最後の行で僕のひび割れた心は粉砕された。
いたいのいたいの、とんでゆけ。
それは苦痛に塗れた人生を送ってきた霧子に残すには正解すぎるほどの正解だった。
「いたいのいたいの」で、霧子の過酷な人生がフラッシュバックする。
学校でのいじめや、家庭内暴力。しつこすぎるくらい、生々しすぎるくらい描写されたそれが、脳内を走馬灯のように駆け巡る。
そして「とんでゆけ」で、その痛みがなくなること、つまり霧子も後を追って死ぬシーンが想起させられる。
母親が怪我をした子供にかける優しい言葉。
それがこのシーンにおいては全く別の意味を持っていた。
「死は救済」とでも言おうか。
プラスの人生を送ってきた奴にとっては死はマイナスでしかないが、マイナスの人生を送ってきた奴にとっては死はプラスでしかない。
そんなことを、考えた。
興味深いのが、あとがきで「元気の出る話として書いたつもりです」と述べられていることだ。
いやこれで元気出ないだろ……
と思いつつも、確かにそれは分からなくもなかった。
どん底の中での幸福、暗闇の中の光。
そういうものに、僕自身が救われてきたのだから。
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