私の人生相談4

あの時あの学校の異常性を確信して、抗議するなり転校するなりしていれば、自分の心はギリギリ守れたのではないか。そう後悔することが度々有ります。


が、当時の私にはその選択肢が与えられていませんでした。学校の方針がおかしい、という理由で退学や転校するなど、高校側がメンツにかけて妨害したでしょう。


また、親戚と張り合うためにあの高校〜自称進学高に私を入れた母が、そんなことを許すはずがありませんでした。私には逃げ道が無かったのです。


A校長が亡くなった直後の学校だよりを読んで、私は驚きました。PTA会長が、A校長について「もともと個性的な方だと思っていたが」という感じのイヤミを堂々と書いていたのです。


公式の文書で、亡くなったばかりの故人の悪口を書くという最低の行為。そんな奴がPTA会長。


教員も同級生も保護者も常軌を逸している。そんな環境が、誰にも摘発されずに存続して動いている。こんな事があり得るのか、と思いました。


毒親、同級生、高校の非常識な指導のせいで、うつを発症した。私はこれで訴訟でも起こしてやりたいぐらいですが、年月が経ち過ぎました。


あまりに陰湿かつ巧妙な暴力行為を受け続けたため、原因に気づくのに今日まで掛かってしまいました。


私はこれからどうやって、自分を取り戻せば良いのでしょうか、、、

(カウンセラー)
こんにちは。

現在は求職中なのですね。それは経済的な面や生活面での不安もあるのも無理ないと思いますよ。大事なことですから、体調にも、もしかしたら少なからず影響はあるのかもしれませんね。


また今回は学生時代の夢を見たことで、体調があまり良くなくなってしまったのですね。


その夢で不調になってしまうほど、授業の進め方も、他の生徒の言動も、とても辛いものだったのでしょうね。


前回、カッターを持って脅してきた生徒がいたり、自分のことを無視してクラスの委員を決められてしまったりしたお話がありましたね。


救急車でパニックを起こして運ばれたりするほど、それまでぐっと耐えてこられていたのではないでしょうか。うつ状態になるのも当然かもしれませんね。恐怖に感じていたでしょう学校生活をよく過ごしてこられたと思います。


A校長のような方が変わり者扱いされ、1年後には亡くなってしまったことはとても残念だったと思います。


自分を取り戻すために、まずはこれまで体験してきたことや溜め込んできたことを吐き出していきましょう。どんな気持ちでいたのか、どんなことをしたかったのか、ご自身の気持ちを素直に出して頂いて構いません。


また、今回のように、うつを発症した原因なのでは?と思うようなことや、他にも「こういうことなのかもしれない」
と気付いていくことができるかもしれません。

>ご返信ありがとうございます。

そうですね、、とにかく思い出した事を整理して文章にしていくしかないですね。対面で話すより、こちらの方が向いてる気がします。

対面だとどうしてもその場の空気やタイミングに影響されて、本当に話したいことが浮かんで来ない時があるのです。


主治医に不調を相談したところ、あっさり薬を増量されて終わりました。どうも多くの医者が、薬の加減でどうにかなると思ってるようですね。

その辺の事情も聞いてみたのですが、精神科・心療内科の医師を育てるカリキュラムそのものに問題があるようです。

なんでも歴史的に、日本の精神医療は統合失調症で施設に収容された患者を「管理」することを主目的にしており、環境要因のうつ・適応障害に対処するための研修は皆無だそうです。

近年の罹患傾向に全く合っていない古いプログラムが、ずっと継続されているようです。

こういった所からも、日本の教育制度の柔軟性の無さが感じ取れます。

こちらでのやり取りを通して、
私の苦しみ・うつの要因が、
母←遠因
同級生←輪をかけてダメージを与えた原因
教師のハラスメント←発症の直接の起因

だと思えるようになりました。

とにかく、あらゆる環境が複雑に影響していると思います。

私は小一くらいまで、将来は画家になりたい、と言っていました。

また得意教科は算数で、理科の実験的なものも好きでした。

が、母によって自宅に閉じ込められ、情報を隔絶された状態で日々を過ごす中で、だんだんと私の興味は母が望む方向に歪められました。

学校から定期的に送られてくる理科の実験教材は「危ないから」という理由で使う事を禁止されました。

学校が採用している実験キットで懐中電灯を作ることが、なぜ危険なのでしょうか?全く意味が分かりません。

いつの間にか、私は歴史と国語好きの文系人間になってしまいました。

>それでも絵はまだ少し得意でした。中学に通い出して初めてのイベントで、校庭で好きなものを書くように言われて草花を描いた所、ALT(英語指導の外国人講師)に「この絵は上手だ」と誉められたのを覚えています。


しかし、中途半端に気持ち悪い絵しか描けない美術教師、自身の似顔絵すらぐちゃぐちゃに描いてしまう同級生に囲まれる中で、私は次第に絵への興味を失っていきました。


今から思えば、自分の興味や適性を確認する大切な機会や環境を母に奪われてから、私はずっと「自分」を見失い、宙をさまよっている気がします。


私は未だに、自分が誰だか分からないのです。


仕事を見つけ、やっと独立してから、ふと気になった美術の専門学校に体験に行った事があります。


体験の中で「あ、ここだ」と感じました。

私が初めて、心から「ここに行きたい」と思った学校でした。


しかし、もう手遅れでした。どう考えても学費の工面が出来なかったのです。実家と縁を切り、貯金もままならない安月給の仕事にありついたばかりの人間には、打つ手が有りませんでした。

そして、必死に生計を立てる間に、この歳になってしまいました。


仮に、現役の時にその学校に出会えていたとしても、入る事は出来なかったでしょう。


「ワタシの子は有名大学に入って当たり前」「専門学校なんて学校ではない」と思い込んでいた母が許可するはずがありませんから。


「お前はよく人に振り回される」と母は私に言いました。が、最も私を振り回してさらに圧迫したのは母でした。


他人の非をあげつらい、あたかも自分が正常のように見せかける。それは天性の詐欺師である母がよく使う常套手段でした。

母はよく「お前が悪い子だった」というエピソードを私に話しました。


私が2歳くらいの時、弟の出産のため父方の祖父母宅に1ヶ月ほど預けられた事が有ったそうです。


母が生まれたばかりの弟を抱いて、私を迎えにきて、支度をさせ、さあ帰るぞと玄関で挨拶をした時のことです。 


祖父母が私に「おい○○、帰りたく無いやろ?もうちょっとここに居てもええんやで?」と言ってしつこく私を残らせようとしたのです。


当時すでに、母と父方の家は徐々に仲が悪くなっていたようで、祖父母の引き留め行為は、母への当て付けの意図があったようです。


母は私に「そんなこと無いやんな?お母さんと帰りたいやんな?帰るで。」と、私から帰りたいと言わせようとしたそうです。

「帰りたく無いやろ?」
「帰るで」
「帰りたく無いやろ?」
「帰るで」

この応酬が続いたあと、間に挟まれた2歳の私は混乱して泣き出したそうです。

母は怒りながら私の手を引いて帰途に着きました。


、、、この話をしながら、母は「普通の子供は、親が帰ろうと言ったら自ら進んで帰りたいと言うはずだ。そうしなかったお前は異常だ。いい子ぶっている。」と言いました。


車の運転要員として同行していた母の兄(父は非協力的で来なかったそうです)も、帰りぎわに2歳の私に向かって「お前も自分で帰りたいと言わんかい!」と怒ったそうです。


この話を聞かされていた当時は、「そうなんかな?」思っていましたが、今思い出してハラワタが煮えくり帰ってきました。


普通の親であれば、自らの責任で子供を守り、祖父母に「余計なことを言わないで下さい」と言うはずです。


さらに我が子が泣き出したなら、まず謝って慰めるはずです。


それを、自分が矢面に立ちたくないが為に、2歳の我が子に責任を押し付けて帰りたいと言わせようとする。


その上、自分の思い通りに動かなかった子供に逆上し、何年も根に持って責め立てて罪悪感を植え付ける。これは極めて卑劣な行為です。


さらにさらに、その動きに母の兄も同調した。全く意味が分かりません。


母への当てつけのために孫を利用する祖父母。祖父母に対抗する道具として私を利用する母。どこにも愛情はありません。


子供に寄り添える人間が、どこにもいない。


大人達の都合で子供を泣かせて申し訳ない、というマトモな人間の感情を、周囲の関係者の誰も持っていない。


そんな「ヒトモドキ」ばっかりなのに、今日も世の中は回っている。これは一体どういう事でしょうか?私にはさっぱり分かりません。

母の発想の根本には、「子供は問答無用で親に従うのが当然」「子供は、親が右と言えば右、左と言えば左にならうもの」という妄信があり、さらに「そうしない子供は異常」という二重三重の思い違いがありました。


ご存知のように、例え親子であっても、別個の人格を持った別々の人間なんですから、意見が違って当然です。


母はその事実を全く受け入れませんでした。


母は自らの軽蔑に値すべき妄想に、なぜか絶対の自信を持っていました。その数少ない根拠の一つが「私は短大で幼児教育を学んだから」でした。


話になりません。母が現役の頃、女性の短大・四大の進学率は20%でした。数の上では上位層になるのでしょう。


しかし無名の短大の入学試験は有って無いようなもので、裕福な家庭の子なら、アホでもどこかに入れたものです。


そこで学ぶ児童心理学など、かなり初歩的なものだったはずです。


それを声高らかに自慢し、自らの妄想を正当化しようとする。なんと空しい学歴の使い方でしょうか。


母は短大で、一体何を学んだのでしょうか?


短大で間違ったことを教えていたのか、それとも母が教わった内容を正しく理解できないまま点数だけ取って単位を貰ったのか。それは謎のままです。

思えば、高二のパニック発作の後に行った公立病院の精神科のお医者さんが一番まともだった気がします。


「同級生の言動はおかしい」「確かにこの辺の地域はよそ者を排除する閉鎖的なところがある」などと的確な事をおっしゃっていました。


もう10年以上前なのでこの先生がどこにいるか探しようがないですが。


高一の時、同級生の男にストーキングされたことがあります。私は自転車通学をしていたのですが、ある日普通に下校しようと自転車を漕ぎだし、4-5分経ったところで、私は異変を感じました。後ろから人の気配がするのです。走りながら後ろを振り返ると、2-3度しか話したことのない二つ隣の席の男が、私の1メートル後ろをぴったりと自転車でつけてくるのです。


その同級生Kは、全く別の中学出身で、帰る方向も全然違いました。しかし、漕げども漕げども、Kは私の後ろをついてきます。


何かの間違いであってほしい、と思った私は、いつもの下校ルートから外れ、高校の方へ戻ってみました。


しかし、Kはやはりいつまでも付いてきます。


たまりかねた私が自転車を止めると、Kも後ろで止まりました。私は「お前何やってるんだ?やめろ!ついてくるな。」と何度も言いました。


しかしKはこちらの問いかけをすべて無視し、「お前〇×△?×◇△?うわー!」と、ここでは書けないような言葉で私を罵倒し始めました。まったく意味が通っていません。私は恐怖しました。


また新しいタイプの気違いが現れたのです。


これが起こる少し前から、私はKに嫌がらせをされていました。例えば廊下や教室ですれ違う際に、Kは必ず私の脇腹を小突いてきました。私が「やめろ」と言っても、「ハア?意味わからんねんけど?」と言い返してきました。同時に追い打ちをかけるように、Kの仲間らが私を指さして「うわーこいつキモー!」と叫ぶのです。私にはもう打つ手がありませんでした、、、


、、、交差点でしばらくKと言い合いをしたものの、話にならない状態だったので、私は止むを得ず自転車を漕ぎだしました。


走りながら、私はどうしたらいいのか必死に考えました。一番怖いのは、Kに私の住所を特定されることです。何をするか分からない奴だから、何としても特定は避けねばなりません。


さらに10分ほど走らせているうちに、私は少し先の道路沿いに大きな交番があることを思い出しました。非常に治安が悪い地域だったので、大体どこの交番にも警官が常駐していました。


すぐ前まで来て、私はとっさに交番の駐車場前に停車しました。すると、Kは意図を察したのか、そのまままっすぐ走り去っていきました。


しばらく様子を見て、Kがいなくなったことを確認してから、私はほっと胸をなでおろして、自宅に帰りました。


翌日、Kと廊下ですれ違った際、Kは「お前なんや?俺のこと警察に言うんか?」と言ってきました。私は無視して立ち去りました。


それ以降、Kが私に関わってくる事は無くなりました。


Kの目的はただ一つ。「とにかく誰かに嫌がらせをしたい」という異常な欲望だったようです。


ターゲットにひたすら意味不明な言葉を浴びせかけ、意味不明な行動をして怖がらせる。Kは相手が困ったり怖がったりしている姿を見るのを、心の底から楽しんでいるようでした。


お伺いしたのですが、このKのような輩は、何らかの人格障害ではないのでしょうか?

(カウンセラー)

こんにちは。


・苦しみやうつの要因が、こうなのだろうと思えることが少し見えてきた感じなのですね。

お話をうかがっていると、おっしゃるように本当に色々な環境的なことが絡み合って影響しているのだろうと思います。


よくご自身で振り返って考えていらっしゃると思います。
ご自身が誰なのかわからないということでしたが、一番身近に接するであろうお母様にご自身らしさを奪われたという思いがあるのですから、わからなくなってもおかしくないかもしれません。


圧迫したり最も振り回してきたという存在なのですから、それを考えるともしかしたら一番のご相談者さんの苦しみの要因となっているのかもしれませんね。
また、祖父母の家に預けられて帰る時にも辛い思いをしていたのですね。


お母様が自分の子どもを守ろうとしたり、慰めてくれるというのはそれは当然のことかもしれません。そのようなこともなくただ怒られ罪悪感を埋め込まれた事、しんどかったことと思います。


その状況の中、思い出せる範囲でいいのですが、どのような気持ちでいたのでしょう。本心はどうしたかったのでしょう。



今なら彼らに何と言いたいですか?


元同級生のK氏のことについても、怖い思いをしましたね。心当たりも無いのにしつこく追いかけられて絡まれるというのは、それは恐怖だったと思います。その1度で絡んでくることはなくなったのは良かったです。


本当に色々な方に絡まれたり嫌がらせをされたりしてきたのですね。そういう同級生に対して、よくご自身でやめてほしいことを伝えてきたと思います。伝えるだけでも相当精神的に疲れてしまいそうです。すごいと思いますよ。


主治医には薬を増やされただけなのですね。今回はどのようなお薬が増えたのですか?薬に詳しい訳ではないのですが、もしよろしければ教えていただけたらと思います。

(カウンセラー)その状況の中、思い出せる範囲でいいのですが、どのような気持ちでいたのでしょう。


>当時の気持ちですか、、多分私は、他者の気持ちや意図に共感しすぎるところがあると思うのです。


最近の言葉でいう、HSPだと思います。


なので、他者が強い意志を持って私に働きかける場合、あたかもそれが自分の気持ちのように感じてしまうところがありました。


特に、その他者が自己中心的であればあるほど、私はその意志に逆らうことが苦痛に感じられました。


なので、祖父母が「帰りたくないんやろ?」と言えば「そうなのかな」と思い、母が「帰りたいやんな」といえば「そうなのかな」と思う。

それで混乱したのだと思います。


自分の意思が無いわけではなく、弱い訳でも無いのですが、それよりも強い意志を持った誰かが近くにいる場合、圧倒されてしまうのです。


この癖というか性格は、独立してからだいぶコントロール出来るようになりましたが、未だに残っています。


例えば、上司から明らかに矛盾した指示をされて、直感で「無理だ」と思っても、つい「分かりました」と言ってしまうのです。


それは「断ったら相手が逆上するだろうな」という所まで読めてしまうから、という理由もあります。

○本心はどうしたかったのでしょう。

>本心がどうであったのか、というのはちょっと思い出せません、、どっちでも良かったのかも知れません。


祖父母も母も、どっちも気違いでしたから、大差なかったと思います。


預けられてた時の記憶として、今でもハッキリと覚えているのが二つあります。

一つは、祖父に無理やり髪を丸刈りにされた事です。


記憶の中では、祖父が「男は丸刈りじゃー!」と言いながら、泣いて逃げる私を追いかけ回して捕まえ、バリカンで私の頭を丸刈りにしてしまったのです。


今から考えれば、完全に暴行罪です。保護者に無断で髪を刈るなど言語道断です。


さすがの母もこれには驚き、私を連れて帰る途中に、帽子を買って被せてくれたそうです。当時の写真にもその姿が残っていました。


二つ目は、私が怪我をした時の対応です。


祖父母宅はド田舎にあり田畑を持っていたのですが、ある日私は伯父(父の兄)に連れられて、田んぼのそばで遊んでいました。


農具倉庫のような、背の低い小屋のそばでぴょんぴょん跳んでいた所、出っ張っていた小屋の梁に頭をぶつけてしまいました。


「イタッ」と思って頭に手を当てた所、私の手のひらは血でベットリと覆われました。


私はビックリして泣き出しました。今から思うと、どう考えても病院で縫うレベルでした。救急車を呼んでも良かったと思います。


しかし、泣き声を聞きつけて来た伯父は「なあに、こんなもんテープ貼ってりゃ治る」と言って、あろう事か手持ちのガムテープを私の傷口に貼り付けたのです。


さらにその当日、私は泣いて抵抗したにも関わらず、頭にガムテープを貼ったまま風呂に入れられました。


伯父はさらに私を浴槽に浸からせ「湯につけた方が早く治る」と言って私の頭を捕んで湯に沈めたのです。


「ギャアアア痛いよう」と泣き叫ぶ私を無視して、伯父はニコニコ笑っていました。まるで良いことをしたと思っている風でした。


一緒に浸かっていた他の親類だれもが、それを止めませんでした。


その時の傷は、未だに後頭部に残っています。


完全に頭の狂った一家でした。

この伯父については、もう一つ思い出しました。


話は前後するのですが、4歳ぐらいの時、めずらしく母父私弟の4人で出かけた事がありました。


先に父私弟が家を出て歩き、大通りを渡ったところで、後から母が追いかけてきました。


その時、不意に当時2ー3歳の弟が「おかあさーん」と言いながら走り出し、大通りに侵入してしまったのです。


母が仰天して「待ちなさい!止まりなさい!」と叫んで、弟は中央分離帯で止まりました。母は「そのまま待ちや!」と言って車の様子を見つつ、道路に入るタイミングを伺いました。


私は訳が分からず、母と父の方をキョロキョロ見ていました。


その時です。父が何と私に「お前が行け」と言ったのです。


HSPの私ですから、「えっ、行った方が良いのかな?」と思いつつ一歩目を踏み出そうとすると、雰囲気を察した母が「お前は出るな待っとれ!」と怒鳴りました。


そのあと弟に気づいた車が止まってくれたので、母は弟を連れて渡りました。交通量の多い道路だったのですが、運が良かったと思います。


このあと母は父に「何でアンタが行かんのや!」と怒鳴りました。父は「ええやんか死んだわけでも無いし」と言って無関心な様子でした。


私は「父は私を殺そうとしたのでは?そうでないとしても、死んでも構わんと思っていたのでは?」と思いました。


、、、後年、ある事情で父の実家に私1人で立ち寄った事があります。その時、私は伯父に上記の父の言動を話し、父が私を死んでも良いと思っていたのだと伝えました。


伯父は「それはなあ、違うんや」と言いました。


が、その次に伯父から返ってきた言葉に、私は耳を疑いました。


「可愛い子には旅をさせろ、と言ってな。」


伯父はこう言ったきり、ワシは良いことを言ったなあ、という顔で満足感に浸っていました。


我が次男が道路に飛び出した。それを助けようとせず、4歳の長男に助けに行けと命じる親。


その話を聞いて、可愛い子には旅をさせろ、という言い訳にもならない言い訳で騙せると思っている伯父。


あまりの異常さに、私は言葉が出ませんでした。それ以上私がなにか言うと、乱暴な伯父の事です、きっと逆上した事でしょう。

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