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砂漠に行きたい日は


カスパー・ダビド・フリードリヒ『海辺の修道士』

ー2023年秋の下書きを公開してみる。


この秋、新しいサークルと新しいバイトと、18祭の1000人と、習い事で始めたミュージカル劇団と。たくさんコミュニティが増えて、初めましてが増えた。
基本的に内向的な私が、夏には初対面が苦手でバリアを張りまくって武者修行プログラムのみんなとも仲良く成り切れなかった私が、こんな風にオープンマインドになったのは我ながらすごい変化だ。
だけど同時に、留学に行く友達に「寂しいね」と告げると「今までもそんなにずっと一緒にいるわけじゃなかったでしょう」と言われたり、「絶対思ってないじゃん!(笑)」と言われたり。
私には、そこまで仲良くないでしょ、と聞こえた。
初対面は克服したものの、その次につなげるのにはまた別の努力がいるのだなぁと落胆しながらしみじみ感じていた。


授業で、「海辺の修道士」を鑑賞した。最近、文字通りくらくらするほど忙しかったり、あまり自分を大切にできていないなと思う中で、サハラ砂漠みたいな、隣の観光客が見えないくらいの広大な場所に行きたい、と思うことがある。ラクダの背中に乗って、砂の音の中を進む。
実際に砂漠に行ったことはないけれど、想像する限り、この絵との共通点は”何もない空間”、クレメンス・ブレンターノに言わせれば「死の世界」であると思う。
何もない、が孤独をいやしてくれたり寄り添ってくれるというのは、なんだかすごく矛盾しているような気がする。でも、孤独に身を晒すことが、自己に意識を集中させて他人からの評価や視線から距離を置くことだと考えると、それは忙しい現実世界からの逃避という意味で同じだ。思いかけず、19世紀と現代との間に親近感を持てた。
そして、この絵を鑑賞しているとき、私は一人ではない。ここには、同じように海辺に一人たたずむ修道士が描かれている。

一人になりたい、はほんとうにずっと一人ではいけないんじゃないか、と思ったりする。
タイトルからも分かるように、フリードリヒはここで「修道士」を描いている。この修道士の姿が見る人に寄り添い、作品が静穏をもたらしてくれる。まるで、「ここで一息ついていいんだよ」と語りかけてくれるみたいに。

そうだ、ずっと走り続けなくたって
いいんだ。
って、自分が一番
わかっていないかぁ。



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