見出し画像

2001年の教室には体罰があった

2001年の教室には体罰があった。1992年に生まれた僕が、小学三年生になった時のことだ。新しく担任になった先生が、コンスタントに体罰をする先生だった。

当時、「体罰はよくないこと」という認識は十分に広がり始めていた。一方で、「でも体罰は必要だろう」というカウンター的な意見は、今よりずっと根強かった。だから、先生が体罰をしてもニュースになることはなかった。体罰くらいでつべこべ言う方がおかしい、という価値観も残っていた。恐らく、どこそこに「体罰をする先生」がいた最後の時代だ。

で、その体罰をする先生、体罰の方法が嫌だった。大変に嫌だった。なんというか、ふつうにグーで殴るとか、パーで叩くではないのだ。説明が難しい。手のひらを軽く握り込み、指を折り曲げてかぎづめ状にし、その先端の圧力を使って押し込むようにシバく、完全なオリジナル技を使ってくるのである。

拳の形としては愚地独歩の「菩薩拳」に近く、腕の振りとしては犬夜叉の「散魂鉄爪」、もしくは肘がちょっと下がったときの藤浪晋太郎である。肩肘を用いた大きな振りかぶりを用いて、手首のスナップを利かせつつ圧力で一点をシバく。

今なら思う。子どもに何やってんだバカ。小三だから言い返せなかったけど、今なら全部言える。だっせえ。体罰ごときのためにオリジナル技を発明するな。大人としてダサすぎる。それも小三にやるな。オリジナル技でしばくなら、せめて高校生の不良とかをしばけ。

それも、先生が狙う場所はただひたすらに脳天のみだった。脳天をオリジナル技でシバく。なんせ圧力を用いているので、高確率で漫画みたいなたんこぶができる。

何やってんだバカ。なんで頭だけ狙うんだよ。頭狙うの、結構な数の格闘技で禁止技なんだぞ。そもそもさ、お前勉強を教える側だろ。なんで頭にダメージを与えたいんだよ。学校にヘッドハンターがいていいわけないだろ。ヘッドを育てるんだよ。なんで頭育てつつ頭シバくんだよ。やってることの構図がキモいんだよ。シバくにしても尻でも肩でもいいだろ。何が目的なんだよ。人間には矛盾があるってことを示したかったのか。だとしたら高校入学以降に現れろ。小学生だとまだ早いから。情報量多いから。

先生が殴るシチュエーションはさまざまである。「宿題を忘れた」「給食を食べ残した」「教室のえんぴつけずりを詰まらせた」「授業開始に間に合わなかった」もう、問題の大小なんか関係なく、殴れたらなんでもいいらしかった。先生は殴られそうなことをした生徒を、「犯人」と呼んだ。毎日、たくさんの「犯人」が生まれた。叩くときには、絶対にみんなの前で叩いていた。惨めさとか、みんなからの目とかを意識させることで、よりいっそうダメージを与えようとしていたのだろう。もちろん、ダメージを受けるのは本人だけではない。周囲もまたダメージを受けて萎縮する。そういうふうにして、教室の空気を作っていくのだ。

だから何やってんだよ。最悪過ぎる。子どものことを子どもの前で簡単に犯人って呼ぶな。犯人はずっとお前なんだよ。なんで子どもの精神にまでダメージを与えたがってるんだよ。手法が古代の王の恐怖政治なんだよ。現代の公務員のくせに何やってんだ。公務員が子どもの心身にダメージを与えるなよ。「ダメージを与えて自治体から給料をもらう」ってなんなんだよ。どんな仕事なんだよ。税金をダメージにして返すな。

という具合に、いま思えばむっちゃ嫌である。ふつうに無茶苦茶である。最悪の中の最悪である。文句なんてなんぼでも出てくる。現代であれをやったならふつうに訴訟もんである。

しかし悲しいかな、当時の僕はその先生に怒られないよう、めちゃくちゃ適応しようと試みていた。そしてそれは、相当にうまくいっていた。クラスのほぼ全員が毎日殴られまくる一年間だったのだけど、僕は2学期以降はほぼ0で済んだ。

殴られないばかりか、たぶん僕は、その先生にマジでめちゃくちゃ好かれていた。「こんなに優秀な子どもはいない」「なんでも任せられる」「神童だ」と言われた。今思えば面と向かって子どもにそんなこと言う大人マジでヤバいのだけど、当時はそのことが誇らしかった。そんなふうに認めて貰えるからには、その先生のことが、たぶん好きでもあった。

いま思えば、マジでめちゃくちゃ情けない話である。本当に情けない。本当の本当に情けない。そんなボコボコオリジナル技で殴って来るヤバい大人に認められたところで、一円の得にも、現世の徳にもならない。殴り返せ。そんな奴、殴り返せ。絶対に殴り返せ。いや、実際には「殴り返す気概を持ちつつ、殴らず睨んでブチギレる」が大正解なんだけど、もう殴り返してもよかった。絶対に殴り返してよかった。そういうことをしてこそ、誇りある人間だった。

やり返せ。やり返すんだよ。やり返して、自分のこともクラスのことも守るんだよ。自分のことを認めてきたなら、「お前なんかに認められても何もならん」と突っぱねろ。泣け。評価された瞬間にボロボロ泣け。「変な奴に評価された、最悪だ」って言って泣け。それくらいのことをしてみろ。

今の俺なら絶対に出来る。大学生の俺でも出来る。高校生の俺でもたぶん出来た。中学生は…まだ難しかったかなぁ。やろうとはしたかなぁ。

ただいかんせん、当時は小三だった。僕はちょっと要領のいい子どもでしかなかった。殴られたあとで理性的に反撃することなんか、選べなかった。

ちなみにその先生はPTAからの抗議によって担任を外された。当然のことだった。


しばらく、この話については忘れていた。Twitterでやっている読み物コンテンツ「九月の読むラジオ」に、体罰にかんするおたよりが来て、ふいに思い出したのだった。

当時は好きだった、好きになろうとした、好きにならなきゃいけなかった先生のことを、今はちゃんと「最悪だったな」と嫌えている。

自分も成長したんだな、と思った。


きっかけになったおたより


著書『走る道化、浮かぶ日常』


YouTubeチャンネル「九月劇場」


サポート頂けた場合、ライブ会場費、交通費などに宛てます。どうぞよろしくお願いいたします。