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倫理観に縛られない家族観

血の繋がりは絶対ではない。

先日、友人の薦めで手に取った 幡野広志 さんの著書『ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために。』を読んで自覚した。そこで改めて自分を取り巻く家族の概念を俯瞰してみることにした。



以前から、家庭によって様々な事情があることは意識していた。生育環境によっては、虐待やネグレクトを受けていたりして、親と縁を切ることが最善の選択肢だったりする。わたしは語れる立場ではないけど、事実世の中には、実の親でも子に愛情を注げないケースが少なからずある。(だから、親密ではない関係のコミュニケーションは深く踏み込むべきではないと念頭に置き、普段から気をつけている。)

とはいえ、子どもを第一に考えて大切に育てるのが世間でいうマジョリティであり、親を持つ大抵の人間は余程の問題がない限り基本的には親子の絆を重んじるべきだ。これがわたしが根本から刷り込まれていた倫理観だ。


両親はわたしに愛情をもってここまで育ててくれたから、本当に感謝している。その気持ちに一点の曇りもない。しかし実のところ、子どものころから家族関係に違和感を感じていた。両親だって肩書き上大人をやることになったひとりの人間なのだから、完璧なんて求めていないけど、理解しがたいことは多々あった。社会にでたらよくある理不尽なことで、それが家庭で起こっただけのことだと思いたいけど、、。


当たり前だけど家族は自分で選べない。自らの意思で選択できなかったものに縛られなくてもいいのだ。今までのわたしは、過ごした時間や血の繋がりを尊み、倫理的な正解を見出してそこに固着していたのかもしれない


だからといって、家族を愛しているから完全に自分だけの道だけを突き進むことはできない。ただ、今まで与えてもらったことに対して、同等かそれ以上に恩を返さなくても負い目を感じる必要はないのだ。この結論は、いつかわたしの心を救うかもしれない、、。


誰しも生まれ育つ環境は選べないけど、年を重ねるうちに人生選択の幅が広くなり、その規模も大きくなる。その代表例として、家族を選べることが挙げられる


10代頃まで漠然と、大人になったら異性のパートナーと結婚して子どもを産むものだと思っていた。それがごく自然に、想定するライフプランにあった。誰に吹き込まれてきたでもない、知らないうちに刷り込まれていたのだから古くから続く社会の構造を妙に関心してしまう。


このような一般的な"普通"が、多くの人々に人生の安心感を与えているのかもしれない。コントロールされているとも言えるけど、生きやすい構造をつくっている一般論の存在を否定できない。それに、基盤となるプランがなければ逆も何もないから、様々な選択肢を想定することもしなかっただろう。


長い人生を共にする家族の選択は、わたしが10代まで思い描いていたよりもずっとずーっと無限大だ。必ずしも恋愛結婚から始まる決まりもないし、そもそも結婚が家族に必須事項ではないと思えるようになった。


身近ではいなくてもちょっとググれば、恋愛感情がない親友の友人と結婚して家族になった人もいたりする。その他にも、既存の枠に囚われずに家族のかたちを考え構成して、幸せに生きている例は多くある。


これは構造上女性に限る話だけど、女性だったら選択次第では戸籍にパートナーがいなくても家族を産むこともできる。だから、あらゆる問題点を無視してシンプルに考えたら、結婚しなくても家族はつくれる。こう考えると女に産まれたのもラッキーだったと思える。


昨今、社会も多様性を認める価値観が根付き始めている。もっと家族観は多様化してほしい。そのためにも、日本でも同性婚が一刻も早く法的に認められることを願う、、。みんな違う人間だから、ひとの数だけ家族観も違うのが当たり前になるべきだ。


この先の人生で、どんな出会いがあってどんな環境を選択するのだろうか。わたしも選択できなかった過去よりも、選択できる未来を見つめるんだ〜。












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