【戦略の立て方と分析】豊臣秀吉のM&Aと北条家の失敗①

織田信長から豊臣秀吉に繋がる天下統一に至る戦略的方針は世代・時代が進むごとに変化している。方針転換、方法転換と言った方がいいかもしれないが、最も大きな変化は天下統一までのスピードだ。

信長も尾張平定から上洛までのスピードは他戦国大名と比較して他の追随を許さないかなり早い方だが秀吉はさらにその上をいくずば抜けたスピード。信長死後から惣無事令を出すまで僅か3年しかない。信長が20年手こずっていた天下統一を信長の家臣だった秀吉がなぜこれ程の速さで天下統一できたのか。その理由が今の時代で言うM&Aだ。

信長は天下統一=自領土拡大といった戦略が主だった。また降伏しても許されるかどうか判らない。戦う前の降伏ならともかく、一度戦った後の降伏はどうもあやしい。そういった不安があっただろうことは推測できる。秀吉も柴田勝家討伐直後くらいまでは同じような戦略だった。

が、譜代の家臣がいないことや徳川家康および信長遺児という障害もあったのでなかなか武力行使だけで統一は難しい。そこで戦略転換を行い天皇・朝廷・関白の権威を使い統一を図る。

つまり成り上がりの秀吉に従うのではなく天皇・朝廷に従う、従わせる。秀吉ではなく関白という役職に従わせる。どんな形であれ関白に従ってくれたらそれでいい。従ってくれれば領土もそのまま。むしろ五大老を筆頭とした役職にも付ける。これが秀吉の天下統一を早めた大きな要因だ。

秀吉も討伐・滅亡させるのではなくあくまでも従わせる為に出兵する。戦う。これを理解していった戦国大名から関白に臣従していき、秀吉の力をさらに高めることになった。
 
しかしこの秀吉の変化についていけなかった大名が、秀吉が最も手こずった家康(最終的には対応できた)と、滅亡する必要のなかった北条家だ。


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