【戦略の立て方と分析】三国志:五丈原の孔明の失敗

天下三分の計が成った後、孔明が北伐を行う前に2つの戦略的失敗があった。

1つは関羽の暴走。東は孫権と和し、北は曹操を防ぐ。関羽がそうしている間に漢中からと合肥辺りから呉に攻めてもらう基本戦略。これが関羽の暴走と孫権の裏切りで破綻し、その失敗の上塗りをするように劉備の呉討伐、そして失敗。

言ってみればこの時点で蜀の明暗は決まっているのだが、孔明にしてみれば魏に降伏するわけにもいかず力を蓄えて北伐をするのみ。

ここで孔明の戦略戦術の基本を考えると、これは安全策一本というところがある。戦争なので安全策を採るのは当たり前だが、だがしかし。リスクを取らなければ勝てるものも勝てないのも戦争。

孔明の北伐の基本戦略は漢中から長安を目指さず、漢中より北の五丈原・岐山に出てそこから長安を目指すというもの。これは安全な地、安路な道を選んだもの。

これに反発していたのが魏延。孔明ともともと仲が悪かったこともあるが、関係が決定的に悪くなったのはこの北伐の失敗だったのではないかとさえ思える。

この時の魏延の孔明への献策(意見)は魏延が率いる別動隊を子午道(漢中~長安の最短道)を抜けて長安へ急襲するというもの。

これは漢中~長安攻略を考えるとかなり理に適っている。実際、魏の司馬懿は「諸葛亮が勇者なら武功に出て東進するだろうが、五丈原に布陣するなら問題ない」と言ったとあるので、司馬懿はこれを一番恐れていたし、五丈原に布陣するなら負けることはまず無いと考えていただろう。

では孔明は何故この戦略を採れなかったのか?

理由は幾つか考えられる。
①兵力不足で分割する余裕がなかった(10%)。
②魏延を信用・信頼していなかった(30%)。
③上庸の孟達が魏を裏切り北上する予定だったので危険を冒す必要はないと考えていた(60%)。

この時の孔明の頭の中では孟達が北上すればわざわざ危険を冒す必要はなく五丈原と2手に行けば勝てる。というものだっただろう。結局、孟達は司馬懿に討たれてしまって失敗するのだが、この安全策を採る孔明の思考そのものが失敗の原因。そしてそれも司馬懿に読まれていた。

しかし子午道を行くのが魏延ではなく張飛や馬超だったら話は違ったかもしれない。蜀攻略の時は、張飛を別動隊で攻めさせたし、張飛の勇名度合いは群を抜いていたことと、蜀攻略の決定打は馬超の劉備軍加入だったことを考えれば、孔明が五丈原に布陣しつつ張飛か馬超が長安を急襲すれば浮足立った敵が逃げ出し成功したかもしれない。その点では魏延には勇名度合いが足りなかった。孔明からの信用信頼度合いも足りなかった。

しかしそれでも孔明は進軍の時間差を調整しつつ五丈原と子午道と上庸から攻めるべきだった。リスクを取ることを恐れ、安全策ばかりを採り、結局失敗する典型例。

冒険しないと飛躍はないし、リスクを取らないと先にリスクを取りそれを乗り切った者に負けるのである。


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