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浦和レッズ 記事まとめ

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2022年11月の記事一覧

11月30日(2013年) 優勝の可能性が消えた日

 2013年11月30日(土)、浦和レッズはベストアメニティスタジアムに乗り込んで、サガン鳥栖とJ1リーグ第33節を行い、1-4で敗れた。この結果、前節まであった優勝の可能性が消えた。  ミハイロ・ペトロヴィッチ監督の2年目。前年は最終節で3位に滑り込みACL出場権を得るなど、新監督就任のシーズンとしては、まずまず以上の終わり方をした。  那須大亮、関口訓充、森脇良太、興梠慎三らの即戦力を獲得したこの2013年、5年ぶりのACLではグループステージで敗退したものの、リーグ戦

11月29日(2003年) モチベーションとは何だろう

 迷った。  悩んだ末に、この日にした。  2003年11月29日(土)、浦和レッズは埼玉スタジアムに鹿島アントラーズを迎えて、J1リーグ2ndステージ第15節(最終節)を行い、2-2で引き分けた。アディショナルタイムにレッズが同点ゴールを決め、鹿島が目前で優勝するのを阻止した。  レッズがヤマザキナビスコカップで待望の初タイトルを獲ったシーズン。ナビスコ杯優勝の5日に行われたJ1リーグ2ndステージ第12節で勝利し、ステージ首位に躍り出た。残り3試合に勝てばステージ優勝

11月28日(2004年) 最先端の意識示す「GO TO Asia」

 2004年11月28日(日)、浦和レッズは埼玉スタジアムにサンフレッチェ広島を迎えて、J1リーグ2ndステージ第15節(最終節)を行い、1-0で勝利した。すでに第13節で2ndステージ優勝を決めていたレッズは、その後2連勝。横浜F・マリノスとのチャンピオンシップに向けて、良いはずみになった。  一瞬、なに? と思った。  3年ぶりに最終節がホームで勝利に終わり、気分良くチームが場内一周に歩き始めたとき、北のゴール裏スタンドに文字が浮かび始めた。 「GO TO Asia」

11月27日(1999年) サポ人生最大の汚点

午後5時20分過ぎ、職場の電話が鳴った。私宛だという。飛びついた受話器から聞こえたのは「Vゴールで勝ったんだけど、ジェフが90分で勝ってしまって。みんな泣いちゃってるよ」。駒場に参戦していた先輩からの言葉に、私は凍りついた。「お疲れさまでした。連絡ありがとうございました」。電話を切るや、私はバックヤードに走った。そして台車の陰に隠れて、私は泣いた。「何故だ。なんでウチが落ちるんだ」と呟きながら。 「遠山さん、土曜日出勤ね」。こう店長から言われたのは、V川崎と引き分けた翌日の

11月27日(1999年) 未来を見つめた11.27

 1999年11月27日(土)、浦和レッズは駒場スタジアムにサンフレッチェ広島を迎えてJ1リーグ2ndステージ第15節を行い、1-0で延長Vゴール勝ちした。勝利はしたが、延長勝ちでは勝ち点2しか得られず、順位を15位に落とし降格が決定した。  勝ち点26の14位で迎えたこの最終節。残留を争う相手は、勝ち点25で15位のジェフユナイテッド市原、勝ち点28で13位のアビスパ福岡だが、レッズは90分以内で勝ちさえすれば市原、福岡の結果に関わりなく残留できる位置にいた。  チームの

23年前の11月27日。世界一悲しいVゴールの後に、森保一(現日本代表監督)が福田正博にかけた言葉とは

《連続1234日目!》 世界中を熱狂の渦に巻き込んでいるサッカーのワールドカップ。 同じ時間に、何億人、いやもしかしたら何十億人という人々がひとつのボールを注視し、一喜一憂している。これって、ものすごい出来事なのかもしれない。 サッカーの試合でいちばん盛り上がるのは、やっぱりゴールのシーンだ。 しかも、そのゴールによって勝利が決まるような場面では、ゴールを決めた選手も周りの選手も、応援しているサポーターたちももみくちゃになって喜び合う。 まさにスタジアムが揺れている、と

11月26日(2011年) 鍛え抜かれた職人技、マルシオのPKで残留がほぼ決定

 2011年11月26日(土)、浦和レッズはレベルファイブスタジアムに乗り込んで、アビスパ福岡とJ1リーグ第33節を行い、2-1で勝利した。この結果、2011シーズンのJ1残留が99.99パーセント確定した。  第29節で降格圏の16位に後退し、ゼリコ・ペトロヴィッチ監督を解任。レッズユースの監督だった堀孝史さんと同コーチの天野賢一さんをトップの監督・コーチに据えたレッズは、第30節で15位に浮上したが、安全圏にはなかなか到達できなかった。  第33節を前にして、モンテディ

11月25日(1995年) 願いは「あと1点」それだけだった

 1995年11月25日(土)、浦和レッズは駒場スタジアムに横浜フリューゲルスを迎えて、Jリーグ2ndステージ第26節を行い、勝利した。あれ、スコアは何だったかな。うーん、間違いなく覚えているのはレッズが勝ったこと。そして福田正博がシーズン32点目を取って、Jリーグ単独得点王になったことだ。  このシーズンの終盤数試合、僕は「チームの勝ち負けより、福田が点を入れることの方が大事」と思っていた。  1stステージで初めて3位に躍進したことで、2ndステージは優勝の意気込みでス

日本代表劇的勝利!noteの世界でもワールドカップが盛り上がってきたぞ

《連続1231日目!》 「ほら、思っていたとおりじゃないの!」 「日本が勝つと思っていたんだ」 そんな声が、日本中のあちらこちらで聞こえてきそう。 そんな嬉しい木曜日となった。 ワールドカップカタール大会で、我らが日本代表が強豪ドイツを撃破し初戦を勝利で飾ることができたのだ。 えっ!? 手のひらを返したみたいに何を言ってるのかだって。 ぜんぜん、そんなことないですー 先日書いた記事の中でも、グループリーグは突破は当たり前で、なんと日本代表が決勝戦まで進んだ場合のス

11月23日(1999年) 葬式からスタジアムへ

この日は希望休日を取り、等々力に参戦した。17日の市原戦から平塚戦、そしてこの日と連続して参戦していたが、この日は急遽、特別な用事が組み込まれた。まさか試合の日に葬儀参列することになろうとは。それでも試合参戦はあきらめなかった。 平塚戦に勝利した翌日だったか、等々力と同じ東急東横線沿線の店舗に勤務するパート社員が急死したとの連絡を受けた。私はこの店舗の開店時のメンバーで(3店舗続けて新規開店に携わった)、亡くなったパート社員へのレジなどの教育をしていた。笑顔の素敵な女性で、

11月22日(2014年) 優勝決める試合に惜敗も依然首位 だがそれより…

 2014年11月22日(土)、浦和レッズは埼玉スタジアムにガンバ大阪を迎えて、J1リーグ第32節を行い、0-2で敗れた。首位のレッズを追撃するG大阪を迎え撃って一気に優勝を決めたい、という思いが強すぎたのかもしれない。カウンターから2失点してしまった。 「差別的横断幕事件」でシーズン初頭にダメージを受けたレッズだったが、リーグ戦では好調だった。前半17試合を首位で折り返すと、そのまま終盤まで順位を守り、2位のG大阪に勝ち点5差をつけて、この32節を迎えた。レッズが勝てば残

11月20日(2004年) 27トンの紙吹雪が駒場を包んだ日

 また名古屋に負けた話か?  違うって。いや、名古屋に負けたのは間違いないが、シーズンを見て欲しい。そう、あの年の11月20日だ。  2004年11月20日(土)、浦和レッズは駒場スタジアムに名古屋グランパスを迎えて、J1リーグ2ndステージ第13節を行い、1-2で敗れた。この日、ガンバ大阪が負けたため、2試合を残してレッズのステージ初優勝が決まった。  日刊スポーツが、この数日前「11月20日の駒場は、晴のち紙吹雪」という見出しの記事を書いてくれた。レッズサポーターが、

11月20日(2004年) 史上最大

この日は、浦和が初めてリーグ戦のステージ制覇を決めた日である。名古屋に敗れたものの、2位のG大阪も横浜FMに敗れた為にステージ優勝が決まった。場所は汗と涙と思い出の詰まった駒場、1993年のJリーグ・ホーム開幕戦で完敗した名古屋がこの日の相手、そしてチャンピオンシップで対戦する横浜FMの援護射撃を受けての優勝決定と何か因縁めいていたが、初めて味わうリーグ戦での歓喜に喜びいっぱいだった。三菱自動車も翌日の新聞各紙に、歓喜の広告を出した。 試合以上に印象に残っているのが、選手入

11月19日(2000年) レッズの一番長い日、かもしれない

 浦和レッズ30年の中で「覚えている日」を挙げてもらうと、トップ5に入るのではないかと思われるのが今日だ。  2000年11月19日(土)、浦和レッズは駒場スタジアムにサガン鳥栖を迎えて、J2リーグ第44節(最終節)を行い、2-1でVゴール勝ちした。この勝利でレッズは3位の大分トリニータを勝ち点1上回り、2位で来季のJ1復帰を決めた。もし延長で点が入らず引き分けに終わっていたら、大分と勝ち点81で並び、得失点差で1下回って3位になっていた。そうなれば、レッズはどうなっていた