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自分が選んだ生き方

自分が選んだ生き方
40歳になる頃自分は大病をして入院を経験した。その頃に読んだ本に、「禅の言葉」に触れる書物があった。そのなかの一節「放てば(はなてば)手にみてり」と言うのに何故か心惹かれた。

静かに座して、思いを手放し執着を捨て、心を空(くう)にすれば、真理と一体となったゆたかな境地が手に入るというのだ。

神社で拝礼する時に、柏手(かしわで)を打つ。両の手のひらを合わせて、ポン、ポンと手を打つ。茶道の帛紗(ふくさ)さばきに「ちり打ち」という布をパンと言わせる仕草もあるという。

一瞬、心を空(くう)にして、心の塵を払って、ポンと手を打つ瞬間に、自分は何か無心の中にとても豊かな心持ちを得る気がする。

よわい四十歳にして、「放てば」「手に満ちる」という感慨になることを信じて実践してみようと、その道を行こうと選んだのだ。決めたのだ。
しかし、自分の自我はわたしが生きている限り存在する。心を放つといっても、最後のワタクシの核までは消すことは出来ない。

そこで、わたしが自分に課したのは次の事柄だ。
※まどか(円か)に生きる
※ご縁に生きる
※わたくし心は、小さく生きる
※奉仕に生きる

果たして、みんな手放して、上げられるものは、他人様に差し上げて、我欲を捨てて、奉仕に生きるべく、断捨離して、ミニマリストを参考にして、常にそうした事柄をすべて出来ないまでも「こころがけ」して生きて、今年六十四歳になった訳だが…。

奉仕に生きれば、お金に困らないという事がわかった。\(^_^)/
(報酬というものは、金銭的の他に物質、環境、境遇、人の縁を含めて、その人の流した<汗>に対して支払われるものだ)

私利私欲に生きる人を横目に見て、自分の持ち分はこれくらい、わたしの取り分はこのくらいと、身の分を「わきまえた」ところ、心は満ちていた。
心にも物理的にもモノを持たない身軽さは、人生の旅の足取りを軽く明るくしてくれた。

この先、円かなる月が欠けることがあるように、不足に窮することもあるやもしれぬ。だがしかし、その苦の不安さえも受け入れて、ケセラセラと無に帰せば、なんとかなりそうだと目測も着いた(笑)
元気闊達な老人として、これからの余生も楽しんで生きて行こうと想う。

この記事を書いた人

#自分で選んでよかったこと

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