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MONGOL

モンゴルにはモンゴル相撲という競技がある。日本の大相撲とは異なり、土俵を持たず、両者が組み合って地面に膝や背中などを着けたほうが負けという競技だ。それを見ることができるモンゴルのお祭りナーダム。ぼくはナーダムを観たくて、モンゴルに行こうと考えていた。
しかし、結果的にはナーダムを観ることは出来なかった。

実に4年ぶりの海外だった。2019年の夏にイギリスに行って以来。その間に大学を卒業し、パスポートの有効期限が切れ、大学院に進学、就職先が決まるというほぼ学生生活の終わりのような状態を迎えてしまった。日数にして1,412日。そんなにも日本に居続けたのかという気持ちが否めない。とにかく今回のモンゴル旅行に、ぼくはとてもワクワクをしていた。この暑苦しく、息苦しい日本から出れる。その一点において、ぼくはワクワクをしていた。じゃぁな、日本。じゃぁな、現実。

モンゴルでは、南部にあるゴビ砂漠を6日間まわった。
今回はその中でも印象的だった場面を3つ切りだしてみた。

無限に広がる荒原

風が吹いてる。うま、うし、やぎ、ひつじの声。人の声は聞こえず、聞こえるすべての声が心地いい。
大地と空しかなく、空ってこんなに広いんだと誰でも思いそうな当たり前のことに感動する。
地平線を遮るものが何も無い。広い大地。広く何もない地面を見ていながら、変なことを考えた。
この広い荒原が、そのまま豪邸のダイニングになったらどう思うだろうかと妄想をした。この荒原が豪邸のダイニングになって、その豪邸に招かれ、主人自慢のダイニングを見た時に同じように広さに感動し、自由な気持ちを感じることは出来るだろうか。きっと出来ないだろう。
反対にきっと窮屈に感じてしまう。こんな広い家、寂しくなるに決まっている。無駄なスペースはもっと有効活用できそうだなと斜めから見て、毒づいているだろう。そして、そんなものを見せられ、その空間がつまらなくなって帰ってしまう。
この感動は広さから出てきている訳では無い。この広い景色のなかで全く持ってお金の匂い、人のにおいがしないからいいのだ。人が生きている地球ではなく、地球に人が生きていると感じられる、その場所に出会えたことは、この旅の大きな収穫だった。

海外にいるときのちっさいストレス

モンゴルでも、夜に街にいれば、街灯が滔々と炊かれているところを観ることが出来る。真っ暗な荒原のなかに、島のようにぽつんと街が現れる。ちょっと明るすぎるな。街灯の明るさが鬱陶しく思えた。この日泊まったのは、街の中にあるツーリストキャンプ。敷地内は電気があって明るい。星なんか見えたもんじゃない。真っ暗なのも怖いくせに、僕は強がったようにそんなことを考えた。
シャワーを浴びた。お湯の出し方が分からない。格闘して、やっと出たお湯。しかし、ちょろちょろとしか出ない。体を洗うには不十分な水量だ。ビオレを身体に着けてこする。汚れ落ちてるのかなぁ。そんなことを考えながら体をこする。シャンプーを頭につける。ちょろちょろシャワーで流す。ちょろちょろだから、なかなか流れない。冗談にも快適なシャワーとは言えない。
逞しくなったなぁ。ふとそんなことを思った。海外にいくとあるシャワー問題。出し方が分からない、出ない、冷たい。トイレ問題。汚い、臭い、水が流れない。日本のどこでも快適なシャワーが浴びれて、トイレを綺麗に使えることがどれだけ凄いことかを実感させられる。
これまでの何度かの海外経験で、シャワーが使えないことには慣れてしまった。イギリスに行ってもシャワーには苦労したので、日本以外はどこもそんな感じなんだろうと思ってる。そんな思いに自分の微かな海外体験の実績を感じて少し誇りに思う。
日本にいたら当たり前にスムーズに出来ることが海外に出た途端に出来なくなる。シャワー、トイレ、食事、言語。とくにこの4つはストレスを感じることかもしれない。しかし、それが楽しいのだ。毎日ちょっとずつ違う。少しのことでも自分で考えないと出来ない。そして、毎日のちょっとのことを気にしないおおらかな気持ち。それが生活する余裕になる。そんなもんだろう。期待値が下がる。日本にいるより小さなことに刺激があるような気がするのだ。言葉も食事もトイレもシャワーも、なんでも出来てしまうことは当たり前ではあるが、彩りがない。

旅を彩る


今回の旅を通じて、宿を出る度、現地の人と別れる度、観光スポットを離れる度にもうこの場所や人に会うことはないだろうと思う。一生に一度の景色、出会い、思い出。一つ一つがとっても貴重で大事なものだと思える。一生に一度のことをしている。そぅ感じるだけで生きてると実感を得る。旅は人を"生かす"
ウランバートルに向けて走る車の中で、徐々にこのゴビ砂漠旅行の帰路に着いているということが寂しく感じられるようになった。1週間続けてきたオフロードを走ること、草原の中で用を足すこと、慣れないモンゴル料理をおっかなびっくり食べることなどがこの先理由がないとできなくなることに寂しさを感じた。そうなると何も無いと思えた草原の風景がとても貴重で、かけがえのないもののように感じられるようになった。旅はときにダラダラと時間を過ごしてしまうものになる。休暇と捉えればとてもいい時間の過ごし方だが、東京の街からかけ離れた場所にいるという意味では勿体ないと感じる。そのダラダラを如何にして意味を持たせるか、意味を感じるかということが旅を充実させる秘訣であるのではないかと考えた。最後だとかこれが見たかったんだとか、そういうちょっとした意味付けで旅は如何様にも色が着く。

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