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自己憐憫は蜜の味

東京の中間施設にいた頃、
毎日スリーミーティングに参加していました。午前と午後は施設で、夜は都内のAAやGAに通いました。

あるAAグループであるメンバーの2年のバースデーミーティングに参加しました。参加しながら、考えていたのは僕もGAに参加するようになって2年目で、スリップさえしていなければ2年のバースデーを迎えられたのに…情けない…悔しい…自分を憐れみました。ミーティングで不快になるのは珍しかったのですが。

それより前、ある先輩が依存症の勉強会で「自己憐憫は蜜の味」と言ったのを思い出しました。自己憐憫とは、「自分を哀れみ、かわいそうに思うこと」です。「なんて不幸なんだ…」と、他人に同情してもらいたい気持ちになります。特に強迫的ギャンブラーになってから、自己憐憫から抜け出せなくなる事が多々ありました。

まさに蜜の味でした。

その日のミーティングのテーマは「今日一日」でした。

僕はそれまで1年のバースデーが近づくとその日を楽しみにして、カウントダウンしていたのです。自己憐憫に陥りやすく、自尊心の低い僕は、バースデーを指折り数え、その日を迎えて皆に祝福されることで気持ち良くなりたかったのです。

それは今日一日を生きることだったのでしょうか?「気持ちの良い先の日を思いながら今日一日を生きられず、バースデーは遠ざかっていったのだと思います。」と、そのミーティングで話しました。

今となるとそんなにバースデーにこだわることはなかったのに…。自己憐憫に陥るようなことではないのに…。

古い考えは少しは捨てられたかな。

とか言って、蜜の味は今でも味わっちゃうことはありますが。

今日一日を生きようと思います。

そういえば赤い本には自己憐憫についてかなり厳しく書いてありますね。

怒りっぽくて、自己れんびんの強い人は他の人への反応だけで生きるようになる。他の人たちがどうふるまうかが自分の幸せと満足の土台となる。その人は、いわば寄生虫のように生きることになる。他人が自分の気まぐれに応えてくれないと、その人の自己れんびんや自己嫌悪はますます根深いものになる。自己れんびんはステップ3でやったように、自己中心的な自我を取り除くことなしに克服することは不可能である。
回復の「ステップ」p175



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