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掌編  神々の島  高北謙一郎

     

こんにちは。週に一度の掌編投稿。いつもは日曜日の投稿ですが、明日は夜まで予定があるため、今日のうちに。

この作品は、ネットニュースでの記事を偶然に目にした際、その島に暮らす老人の生き方に感銘を受け、私なりに物語にしたもの。うつくしい無人島に暮らす老人…それだけで様々なイメージが膨らみますよね。

今回も投げ銭設定です。お楽しみいただければ幸いです。


【神々の島】              高北謙一郎

彼がその島に流れ着いたのは、彼がまだ三十代の半ばを迎えたばかりの春のことだった。

その日、彼は海に出ていた。魚を獲って生計を立てる漁師にとって、それはいつものことだった。ただすこし欲が出たのだと、彼は当時のことを思う。たしかに波は高かった。しかし魚はよく獲れた。忍び寄る危険に、気づくことはなかった。

船がだいぶ陸から遠ざかった時、不意に頭上が暗くなった。さっきまで快晴だった空が、にわかに分厚い雲に覆われた。まもなく横殴りの雨が船を叩いた。嵐だった。舵もエンジンも、役には立たなかった。猛烈なうねりが船体を襲った。転覆は免れない……自分の身体が宙に浮いたと思った瞬間、彼は激しく操舵室の天井に叩きつけられた。そこまでだった。弾き返されるように床に激突したことも、窓ガラスを突き破って海に投げ出されたことも、彼は知らない。意識はすでに途絶えていた。

次に目を覚ました時は、朝になっていた。嵐も鎮まっていた。そして彼は船ともども、その島の浜辺に打ち上げられていた。今から、およそ三十年も前の出来事だった。


彼を助けたのは、島の管理人を名乗る男だった。もうすぐ七十の齢に達しようかという老人は、横たわる彼の傍らで静かに海を眺めていた。そして彼が意識を取り戻したことに気がつくと、「荒れたな」と、ぽつり呟くように言った。「大丈夫か」でも、「怪我はないか」でもなく、ただひと言。そしてまた、その視線を海に戻した。

穏やかな風が吹いていた。ゆったりと、波が浜辺を洗っていた。彼は仰向けに転がると、深く息を吸った。これまで嗅いだことのない、海の匂いがした。夜と朝の狭間の、うつくしい空が広がっていた。自分がまだ生きていることを、彼は理解した。

「二日後、わたしはこの仕事を引退する」と、彼の頭上で老人の声が聞こえた。「君がその気なら、あとを継いでもらって構わない。いずれにせよ――」

自分はこの島を出て行くのだと言って、老人はふうと溜め息を吐いた。

どうして老人がそんなことを口にしたのか、今でもよく分からない。あるいは彼の中に自分と似た何かを見つけたのかもしれない。あるいは偶然の出会いに、老人なりの意味を見出したのかもしれない。分からない。しかしそもそも彼はそれを確かめるつもりもない。

もともと、彼は当時の暮らしにうんざりしていた。小さな漁村での自分の仕事にも、その狭いコミュニティでの人間関係にも。そしてまた、いつかここから出て行ってやると思いながらも、いつまで経っても行動に移せない自分自身にも。彼は座礁した船を老人に譲った。損壊は激しかったが、なんとか海に出ることは可能と思われた。そしてその代わり、老人が暮らしていた小屋を譲り受けた。こちらもまた修繕は必要だったが、雨風を凌ぐには充分と思われた。こうして彼の、三十年にも亙る管理人としての生活が始まった。


静かな島だった。誰もいなかった。前任者が島をあとにすると、本当に誰もいなくなった。誰もいない島で、彼はひっそりと暮らした。シンプルな一日だった。朝、陽が昇るより前に起床すると、彼は浜辺を歩いた。ピンクがかった色合いの、不思議な浜辺だった。珊瑚や貝殻が波に揉まれ、細かな砂のようになって出来た浜辺だった。彼は流れ着くプラスチックやビニール袋といったゴミを拾い集めることで、その景観を護った。

食料は島に育つ果実と木の実、海から獲れる魚たち、そして時おり波に乗って運ばれてくる缶詰やボトルに入った酒……彼ひとりが生きていくには充分だった。気をつけなければならないのは飲料水の確保だ。雨水を貯蔵するよりないが、口にできるのはほんの数日だ。冬場ならともかく夏ともなれば二日と持たず傷み始める。彼は島に群生する草花を手折り、数滴の水分で渇きを癒すことを覚えた。

彼はまた、ネズの木を拾ってきては、岩で削った。彫刻の手ほどきを受けたことはなかったが、誰に会うこともなく過ごす日々は、眠っていた創作意欲を揺り動かした。削り出すものは様々だった。ヒトの姿をしたものもあれば、牛や馬といった動物もあった。初めのうちは想い描いたものをカタチにすることに言い知れぬ喜びを感じたものだが、いつしか木の中に眠る声なき声に気づくようになった。彼はネズの木を前に耳を澄ます。この木はその内側に何を宿しているのか……閉じ込められた命の救済は、彼の日課となった。

夕方、彼は再び浜辺にやってくると、適当な岩場に腰をおろし、沈みゆく夕陽と海を眺めた。風と波の他、何も音はなかった。世界中が静けさに包まれたようなこの時間が、彼は好きだった。さびしさは感じなかった。どれほど隔絶された島だろうと、彼はこの場所が世界の一部であることを知っていた。瞬き始めた星々や次第に色合いを濃くしていく月は、誰の頭上にも存在する。春が来て、夏が来て、秋が来て、冬が来て……時の流れもまた、この場所が世界の一部であることを教えてくれた。こうして彼は幾つもの季節を重ね、歳月を積んだ。三十年という時間は長くもあり、短くもあった。

自分はこのままここで死を迎えるだろうと、いつしか年老いた彼は思う。誰に看取られることもなく、誰に悲しまれることもない。この島で生き、この島で死ぬ。いずれその亡骸は朽ちて消える。時どき、小屋の中に舞う微細な埃を見て思う。窓から射し込む陽射しを受けてキラキラと煌めく塵あくた……自分もまたいつかはそうなるのだと、彼は思う。

そして数十回目の春を迎えたその日、嵐はやって来た。


初めは穏やかな空だった。しかし浜辺を歩いていた彼は、その兆候にいち早く気がついた。あの日と同じだ――空を見あげて思う。すぐに分かった。嵐が来る、と。

小屋までの道を急ぐ。長い歳月の中で彼の身体は衰えていた。伸びるに任せていた髪は色を失い、艶も消えた。肌はなめした皮のように硬く、浮き出たあばらや四肢の関節は木の幹のように歪だった。それでも走ることはできた。走りながら、重い石や倒れた木々を拾い集めた。小屋の補強を済ませた時には、すでに空は真っ黒な雲に覆われていた。

まもなく雨が降り始めた。風も強くなった。小屋の隅で身体を屈め、彼は外の気配に耳を澄ます。激しい雨音が建物を叩いた。いつ小屋が吹き飛ばされても不思議ではない。自然の猛威の前では人間など無力……言葉にすれば陳腐なものだが、それは事実だった。それでも恐怖はなかった。嵐が激しさを増すほどに、彼の心は穏やかに凪いだ。目を閉ざし、ゆっくりと息を吐く。深い皺の刻まれたその口もとに、うすい笑みが浮かんでいた。

長い夜が過ぎた。一睡もすることなく、彼は朝を迎えた。夜明け前に、嵐は過ぎ去った。彼はノロノロと立ちあがると、しっかりと閉ざされた小屋の扉を開けた。

夜と朝の狭間の、うつくしい空が広がっていた。ピンクがかったその色は、島の浜辺に似ていた。深く息を吸い込むと、懐かしい匂いがした。それはあの日、浜辺に打ち上げられた彼が嗅いだ、海の匂いだった。

嵐のあとの浜辺は、様々なものが流れ着いていた。彼はプラスチックやビニール袋を拾い集め、倒木や海藻、うす汚れたゴミを運んだ。いつもの朝だ。いつもと変わらない一日の始まりだ。しかし彼には分かっていた。これが最後なのだと。予感はあった。世界は繋がっている。そして時間もまた、過去から現在、そして未来へと繋がっている。ならば今日、この場所に流れ着いているはずだ。彼に代わる、新しい管理人が。

思えば前任者の老人は、彼が流れ着いて二日後、島を離れた。最初の一日は彼の体力の回復に費やされ、あとの一日は、彼に島を案内するために用いられた。そして老人は二日後の朝、彼から譲り受けたボロボロの船に乗って去って行った。

自分がこの地で死を迎えるという考えは、摂理に反するものであったと彼は思う。次の管理人が現れれば、自分もこの島を譲り渡さなければならない。いや、そもそもここは自分の所有物ではない。誰のものでもないし、同時に誰のものでもある。

そういうものだと、彼は悟った。そしてその視線の先に、昨夜の嵐が運んできた漂着物を見る。ボロボロに破壊され、横ざまになった小型の船……ゆっくりと近づいていく。一歩一歩、長い歳月を踏みしめるように。

ちょうどいい岩場もあるじゃないか……かつての前任者が座っていた岩を見つけ、彼は自らが運命に引き寄せられていることを知る。そう、もうすぐだ。もうすぐ自分もまた、この島を離れるのだ。その向かう先に、何が待つのかは分からないけれど。

彼は岩場に腰をおろす。その傍らでうつ伏せになって倒れた青年が目を覚ますのを、海を眺めながら、静かに待つことに決めた。

                                        

                                                                                           《了》

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