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掌編  餓鬼  高北謙一郎

  

こんにちは。週に一度の掌編投稿です。本日は土曜日の投稿。ちょっと明日は外出予定があり、さらに現在ケータイが不調。キチンと動くか不明のため、今日のうちに自宅から。

今回はちょっと季節外れですが、最近の夜の空気感がこの作品の雰囲気に似ている気がして、先週あたりから「次はこれ」と思っていました。

今回も投げ銭設定です。お楽しみいただけたら幸いです。


【餓鬼】                 高北謙一郎


夜、すっかり辺りが暗くなったころ、とある神社の境内に忍び込んだ。

十月最初の日曜日。神はもう、出雲の国に出立した。留守を狙うなら早い方がいい。

以前に公園のゴミ箱で拾った小型のペンライトで足もとを照らしながら、敷地の中を進む。向かい合う獅子の間を抜け、ずらりと並ぶ石碑をやり過ごし、拝殿に辿り着く。ひとの気配は感じられないが油断は禁物だ。社務所の奥に誰か残っているかもしれない。

昨日、《神送り》の儀式が執り行われた。神無月に入り神々が他国に出立する日、多くの神社ではひとびとからの供物を奉じる。こちらの神社でも盛大に催された。つまり、ここには今、膨大な量の食糧が眠っているということになる。

とはいえ、ぼくの狙いは拝殿の中にはなかった。足音に気を配り、建物の正面から背後に回り込む。暗がりに、剥き出しの赤い土。ライトで照らしていくと、黒々とした鉄の蓋が見える。これこそが、地下へと続く入り口だった。


この神社を中心に、街全体に広がる地下道の存在を知ったのは、ふた月ほど前のことだ。まだ暑い夏の夜、いつものねぐらで群がる羽虫と戦っていると、顔見知りの男が現れた。ぼくよりひとまわりは上、五十代の半ばぐらいだろうか。めったにないことだが、彼とは初めからウマが合い、ぼくが路上に暮らすようになってすぐ親しくなった。

彼は珍しく酔っ払っていた。市街地で祭りがあったらしく、神社で酒が振る舞われていたとのことだ。確かにその日は遠く祭囃子や花火のあがる音が聞こえていた。

「酒をいただいたついでに境内をうろついてみたんだ」と、彼は言った。「噂に聞いたことはあったんだが、まさか本当に存在するとはな」

それが地下への入り口だった。彼の言葉によると、この街には幾つもの寺社仏閣が点在しており、そのすべてが地下で繋がっている、とのことだ。神々はそこを通って互いに行き来しているようだが、その実ひとびとにとっては別の意味合いを含んでもいた。

「むかしから客商売の店なんかじゃ、繁盛を願って供え物を欠かすことはなかった」と、どこか懐かしむような口調で彼は言った。「中でも神無月の《神送り》の儀式、それと《神迎え》の儀式は最も力の入ったもんになる。それこそ、神社に収まりきらないほどにな」

その収まりきらない供物が、地下へと貯蔵されるらしい。そこまで言って、彼はおもむろにぼくの方に顔を向けた。「で、そいつを狙っちまおうと思うんだが、一緒にどうだ?」


そして今ぼくは、神社の境内でひとり地下へと続く入り口を前にしていた。雲に隠れていた月が顔を出し、辺りを蒼く染めた。彼はいまだ姿を見せない。約束の時間はとっくに過ぎている。もしかして、今さら神への冒涜に恐れをなしたとでもいうのだろうか?

腹が減って仕方がなかった。ここ5日間、何も口にしていない。どういうわけか、それまで多少の我慢さえすればそれなりに手にすることのできた食糧が、まるで見つけられなくなってしまっていた。どこを漁ってもゴミしか出てこない。誰かに施しを求めても相手にもされない。仲間内を頼ろうにも、誰もが自分のことで精一杯なのは判っている。

だめだ、もう待てない。ぼくは共犯者の合流を待つことなく、鉄の蓋に手を伸ばした。 


深い穴が、垂直に掘られていた。錆びついた梯子にしがみつき、入り口を元に戻す。地下道におり立つと、濃密な闇と冷ややかな湿度が纏わりついた。強烈なカビの臭い。ペンライトで辺りを照らす。剥き出しの土のトンネルが、左右に伸びていた。決して整備の行き届いた都市の水路とは違うらしい。むかし海外で見た、カタコンベを連想させた。

天井から伸びる白い触手のような木の根。滴るしずくが、足もとに水たまりを作っている。ふと壁の一面に光を当てた時、なにか黒い蟲のようなものが蠢いた。別に大きなものでもないし、今の暮らしの中では取り立てて驚くほどのものではなかったのだが、この薄気味悪い空間で遭遇したそれに、思わず怖気づいた。

深く息を吐く。落ち着け。きっとこの先には手入れの行き届いた場所があるはずだ。そこにひとびとからの供物が整然と並べられているのだろう。そうに違いない……

自分に言い聞かせたのも束の間、突然、ペンライトがその淡い光を消した。

おいおい、そりゃないだろう。よりにもよって、ここで電池切れか? 

闇の中、何度もスイッチを押した。しかしもう、それが光を放つことはなかった。

どうすべきか……このまま闇の中を進むことはできない。引き返すしかないだろう。

「まぁ、せっかく境内にまで忍び込んだんだ、拝殿の中でも覗いてみるか」

気楽な言葉とは裏腹に、声が震えた。すでに両の手は先ほどおりたばかりの梯子を掴もうと必死だ。まだ数歩しか移動していないはずなのに、どうしても見つけられない。喉がカラカラに渇く。闇に……そして恐怖に、圧し潰されそうだ。と、その時――

闇の向こうで、微かな物音が聞こえた。

一瞬、全身が硬直した。ごくりと唾を呑む。身を屈め、音の聞こえた方に集中する。

なんだろう、鼠でもうろついているのか? 異常に速くなった鼓動が暴れている。

ひたひたと、それは近づいてきた。足音が聞こえる。息遣いも聞こえる。気味の悪い呻き声さえも。そう、それが鼠でないことは明らかだ。自分でも気づかないうちに悲鳴をあげていた。焦れば焦るほど身体が上手く動かない。まるで金縛りにあったかのようだ。近づいてくる。近づいてくる。何か、得体のしれない者が……と――

「誰かいるのか?」

頭上で声が聞こえた。閉ざしたはずの入り口の蓋が、ゆっくりと開かれた。
不意に月あかりが地下道にまで届いた。一瞬、蒼い光に目が眩んだ。だけどぼくの網膜はそれを捉えていた。すぐ目の前に立つ、その異形を捉えていた。

土気色の肌、痩せ細った身体、乱れた毛髪の陰から落ちくぼんだ眼窩が覗いていた。そしてその骨ばった指さきが、ぼくに触れた。凍りつくほどの冷たさだった。絶叫した。それはこれまで感じたことのないほどの恐怖だった。叫び声に紛れ、自分の魂が身体から逃げ出そうとしている。それが判っているのに口を閉ざすことができない。頭の中で、何かが音を立てて切れた。ぼくはその場に倒れ込むと、そのまま意識を失った。


秋の心地よい風が、ゆるりと吹き抜けた。
気がつくと、ぼくは仰向けに、地面に横たわっていた。

「おう、大丈夫か?」すぐそばに、仲間の男。彼は湿らせたタオルでぼくの身体についた泥を拭ってくれた。「すまんな、今日に限って時計が壊れちまった」

どうやら待ち合わせに遅れたことを詫びているようだ。黙ったままで辺りの様子に目を向ける。拝殿の横、手水舎の庇の下……つまり、まだここは神社の境内……だけどもう、ここは地下の闇とは別の世界だ。助かった……長く深い息を吐く。

「あの男は?」掠れた声で訊いた。

「地下道の奥に戻った」彼はこちらに視線を向けることもなく、呟くように言った。「あいつも、以前は俺たちと同じように路上で暮らしていたそうだ」

「話したのか?」

「お前が気を失ってからな」

少なからず驚く。あの男と会話が成り立つということ自体に。

彼はひとつ頷く。「もうまともにしゃべることも出来なかったが、伝えようとしていることは理解できた。あいつはお前を襲おうとしたわけじゃない。自分と同じ過ちを犯しちゃならないって、そう伝えに来たんだ」

かつて、男は地下に忍び込み、神への供物に手を出した。空腹に耐えかねてのことではあったが、しかしそれで飢えが満たされることはなかった。それどころか食べれば食べるほど空腹に苛まれた。夥しいほどの食糧や酒を貪り、地下を彷徨った。地上に戻ろうにも、絶えず空腹を抱えた状態ではそれも難しかった。結局、目の前の誘惑に抗うことはできず、幾日も食糧を求めて歩き続けた。そして気がつけば、おぞましい姿に変わっていた。

「耐え難い苦痛が続いているらしい。神の赦しを求めてもいるそうだ。それでも、神があいつの前に現れることはない。どんなに地下を歩き続けても……」

脳裏には、まだあの男の姿が残っている。もはやこの世の者とは違う、餓鬼の道に落ちた姿……いつの日か、彼は神の赦しを得ることができるだろうか? その罪の穢れを浄めることができるだろうか? そして再び、この地上に……小さく息を吐いた。視線の先に、蒼い夜空。ぼくは月に右の手を翳し、その光を全身に受け止めた。

     
                                     

                           【了】

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