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掌編 暗示 高北謙一郎

   

さて、週に1度の掌編投稿。といいたいのですが、なんと先週すっかり投稿を忘れてしまっておりました。というわけで1週空いてしまいましたが、とりあえず恒例の掌編投稿です。今回も投げ銭設定。お楽しみいただければ幸いです。


            【暗示】               高北謙一郎

警察の取調室なんて場所に入ったのは、初めてのことだった。

殺風景な部屋にテーブルがひとつ。向かい合わせにふたつの椅子が置かれている。僕はその片方に腰をおろしていた。目の前には厳つい顔の男。部屋の隅にもうひとりが控えている。

「さっきね、防犯カメラに映った君の姿を確認したよ」と、目の前の男が告げた。「言い逃れようもないだろう? 盗みを働いたのは、君だね?」


昨夜のことだった。仕事帰りに駅前の書店に立ち寄った。目当ての本があったわけではないが、明日の通勤時間に読む本が欲しかった。取り立てて特徴のない、小さな書店だ。何年も前のベストセラーと最新の週刊誌がレジの前に平積みに置かれている。愛想の悪い店のオヤジを横目に、めぼしい本がないか物色する。奥に続く棚のほとんどは、選択の意図が判らない文庫本で埋められていた。客と思しきひとかげは見あたらない。

どれくらい探していたのだろう、閉店を告げる音楽が流れ始めた。いつの間にかこんな時間だ。腕の時計を見て驚く。けれど同時に、僕はそこに店主の悪意を感じ取る。買わないならさっさと帰れ、とでも言われているみたいだ。こうなったら意地でもなにか見つけ出さないと。急かされるように、改めて書棚に目を向けた。と、それは不意に僕の中から湧きあがった。
 

本が欲しい。

書店に立ち寄ったのだから本を求めるのは当然のことだ。けれどそこで感じた衝動は、それとは別種のものだった。そう、買いたいわけじゃない。ただ純粋な物欲。息苦しいまでの渇望。万引き、という言葉が頭を掠める。瞬間、極度の緊張が背筋を這いあがってきた。乱れた呼吸を整えるように、大きく息を吐いた。誰かに右手を掴まれたのは、その時だった。

ハッと我に返る。見知らぬ女が隣に立っていた。無造作に束ねた白い髪や浅黒い肌に刻まれた深い皺。老齢の女だ。垢じみた衣服はそれを着た当人と同じぐらいみすぼらしかった。

「悪いけど、ここでは止めておくれ」と、しわがれた声が聞こえた。「盗みっていうのはね、それを見た者に感染するもんなんだよ。この歳になって盗みなんて、わたしはゴメンだよ」

僕は女に右の手首を掴まれたままに、呆然と立ち尽くしていた。脳裏に、つい先日の出来事が思い出された。週末の映画館で目撃した、少年による万引きの場面だ。土曜の午後ということもあって、館内は酷く混みあっていた。チケットを購入して開場を待っていたものの、いつの間にか隅の売店まで押し流された。ふと、小学生ぐらいの男の子に目が留まった。小さなキーホルダーを服の中に隠した瞬間だった。気配を察したのか、彼は素早く物陰に身を隠した。

たぶん、彼は様子を窺っていたのだろう。おそらく僕が動いたら、服の中に隠したモノを元の場所に戻しただろう。しかしそれで彼は盗みを諦めるだろうか? そんなことはない。僕が立ち去れば、彼はまた店の品に手を伸ばすだろう。けれど、僕はその場を立ち去った。面倒に巻き込まれたくなかった。うしろめたさを残しつつも、気付かぬふりでやり過ごした。


盗みは感染する――どうして女はそんなことを告げたのだろう? もしかして映画館でのことを知っているのだろうか? とはいえ、僕は弱みを握られるようなことはしていない。今だってそうだ。僕はまだ、幾らでも言い逃れることができる。なにしろ、まだ本に触れてさえいないのだから。にもかかわらず、僕はその手を振り払うことができなかった。

「だけどね――」と、女は口を開く。「あんたが抱えてる衝動、それはきちんと盗みを働かないと解消されるもんじゃないよ。どのみちあんたは盗みを働く。その衝動を抑えることはできないんだ。だったらセコイ本なんかじゃなくて、もっと大きなモノを盗んじまいなよ」

いったい何を言い出すのだろう? その唐突な言葉に、僕は唖然とするよりなかった。

女は続ける。「いい場所を教えてやるよ。そこなら絶対に失敗しないよ。誰にも見つかんなきゃ、あんたが自分の衝動をほかの誰かに感染させちまうこともない。そのたちの悪い欲求も解消できる。素晴らしいじゃないか。どうだい?」

そんなことを訊かれても困る。だいたいそんな話、誰が信じるんだ? わけの判らなさに怒りさえ覚えた。「何故、それを僕に?」尖った口調で訊いた。「失敗しない盗みなら、ご自分で実行すれば良いじゃないですか」

「あんた、こんな婆さんに盗みを働けって言うのかい?」女は呆れた顔を向ける。「身軽に動けるんだったらそうしてるさ。だけどね、全部くれてやるとは言ってないよ。目的の場所まで連れて行ってやるから、その手間賃として分け前を寄越しな」

「いや、僕はまだ引き受けるとは言っていないんですけど」

「言ってはないけど、引き受けるんだろう? じゃないと、あんたはまた中途半端な場所で盗みを働くことになる。そして今度はもしかすると誰かに目撃されるだけじゃすまないかもしれないよ。警察に突き出されるかもしれない。そうしたらどうするんだい?」

先ほど自分の中に膨れあがった衝動――もしもあんな感情に再び支配されたら、僕はそれを抑え込めるだろうか? いつの間にか女の術中にはまっている。そう思いつつも、自分に対する疑念を消すことができない。

まるで暗示だ。この衝動にケリをつけない限り、もう二度と心の平安は訪れないのでは……そのためにはすぐにでも盗みを働かなければならないのでは……そしてそうせざるを得ないならば、もっとも安全かつ確実な場所で実行する方が……

ため息を吐いた。やるしかない。僕は女に視線を向けた。

女は口もとを歪めて笑みを浮かべると、ゆっくりと頷いた。


大きな屋敷だった。僕は女のうしろからその古く厳しい建物を見あげた。

「こんな立派な屋敷、本当に大丈夫なんですか?」思わず不安が口を衝く。

「立派なのは見た目だけだよ」女は振り返ることもなく言った。「よく見てごらん、鉄条網が張り巡らせてあるわけでもないし、犬が飼われてる様子もない。ついでに言っておくけどね、この時間、屋敷の人間はみんな出掛けちまってる。そう、留守なんだよ。楽勝だろ?」

どうやら調べはついているみたいだ。

「それはそうと、僕はいったい何を盗み出せばいいんですか?」

考えてみればその家に何があるのか、まだ知らなかった。

「水晶玉だよ」と、女は告げた。「未来を予見するんだ。驚くほどあたるって噂だよ」

如何わしい。だけど如何わしいというならそもそもこの女の存在自体が如何わしい。今さらその程度のことでは驚かなくなっていた。僕は女が口にする詳しい部屋の配置、そして水晶玉が保管されているという中庭に建てられた蔵の様子などの情報に耳を傾けた。わずか数分後、警報ベルの鳴り響く屋敷の中で、ひとり途方に暮れることになるとは思いもせずに。


「自分がやりました」と、僕は告げた。

そう、昨夜、僕は屋敷に忍び込んだ。中庭まで何の問題もなく進んだ。女から受け取っていた合鍵で蔵の扉を開いた。中に滑り込むと、その奥の間に光り輝く水晶玉が置かれていた。

急に、あの書店で湧きあがった興奮と緊張が身体を支配した。引き寄せられる。ふらふらと近づく。ひんやりとした球体に、手のひらが張りついた。と、突如、警報ベルが鳴り響いた。  

その時になって気がついた。部屋の隅、天井付近に仕掛けられた、一台の防犯カメラに。

「あの水晶玉は色々といわくがある。持ち主も警備を怠ったりはしないだろうよ」

目の前の男の声で我に返る。

「熱心な信者もいれば人生を狂わされた連中もいる。以前にもあの水晶玉に絡んだ事件があった。爺さんがひとり自殺しちまったんだ。老後のための貯えをつぎ込んで株に手を出した」

「ああ、あの時はこっちもトンだとばっちりだったな」と、部屋の隅に控えるもうひとりが口を挟む。「残された婆さんが乗り込んできて、あの占いはウソっぱちだ、もっと調べろって……そんなもん、俺に言わせりゃ信じる方が悪いんじゃねぇかってもんだ。しかもこっちが丁重にお引取り願ってるっていうのに、婆さん、逆恨みしやがって。いつか仕返ししてやるって散々わめきちらして帰って行ったよな」

「やれやれ。何にせよ、もうこれ以上の仕事はゴメンだな」男はため息とともに言った。それから思い出したように僕に目を向けた。「それはそうと、さっき盗みは感染するとかなんとか、そんなことを言っていなかったか? それを君に教えたのも、たしか……」

「ええ、老齢の女でした」僕はひとつ頷く。その特徴を詳しく並べていく。次いで、映画館で目撃した子どもの万引きの件を。けれど言葉を連ねながら頭の片隅で考えていたのは、男たちが口にした言葉だった。先ほど、男は防犯カメラに映った僕の姿を確認したと言った……盗みは感染する……

そしてたった今、聞かされた過去……逆恨み……仕返し……

顔をあげた。目の前に座る男が、ジッとこっちを見据えていた。

その額に、うっすらと汗が滲んでいた。

僕は今、あの衝動がふたりに感染したことを知った。

                                                                                                                                     【了】

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