プロフィールモノクロ

掌編 黒と白の肖像 高北謙一郎

こんばんは。週に1度の掌編投稿です。思えばこの作品を書いたのは1年ほど前のこと。長く写真を撮り続けていますが、自分自身が写される側に回ることが非常に苦手です。今日は自撮りが苦手なすべてのかたに。

いつものように投げ銭設定です。最後までお楽しみいただければ幸いです。


   【黒と白の肖像】              高北謙一郎

それは、いかにも老舗といった古いホテルだった。驚くほど動きの遅いエレベーターで五階にあがり、薄暗い通路を進んでいくと、かつては純白だったであろうくすんだレースのカーテンの向こうに、ぼんやりとした黄色いひかりが見えた。写真室だった。

「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?」

カーテンの隙間からそっと部屋の中を覗く。正面に、薄いグレーの背景紙が、天井から床の途中まで緩やかな弧を描くように吊るされていた。左右の壁は黄ばんだ漆喰で塗り固められ、頭上にはカーテン越しにも見えたランプがぶら下がっていた。中央に、三脚によって固定されたカメラ。まるで何十年もの間ずっとこの場所に留まっているかのようだ。

誰もいないのだろうか? 再び自らの来訪を主張したが、やはりどこからも返事をもらうことはなかった。どうやら本当に留守のようだ。受付らしき小さなカウンターが通路の先に見えたが、当然そこももぬけの殻だ。仕方がない、しばらくこのアトリエで待たせてもらおう。私はゆっくりとカーテンの隙間を広げると、忍び込むように足を踏み入れた。


私もまた、古い人間だった。人類が百年の寿命を手に入れたいま、七十代の半ばなどまだまだ若輩と思っていたが、ここにきて自分がだいぶすり減ってきたものだと、認めざるを得なかった。節々は痛み、疲労は蓄積された。死というものを意識するようにもなった。

そして自らの老いを最も思い知らされるのが、記憶の欠落だ。いわゆる物忘れ――健忘症だ。何をどこに置いたのか、何をしていたのか、あの人物は? あの場所は? ありとあらゆるものを忘れてしまう。考えてみれば、いま自分がどうしてこの写真室を訪れたのかも、よく分からない。誰かに呼ばれたような、そんな気がしたのだが……

ふと、部屋の隅に置かれた鏡に気がついた。太い木枠で組まれた大きな鏡だ。近づいて、自分の姿を映す。黒いスーツに黒い帽子を被った、年老いた男がいた。青白い顔には生気がなく、真っ白いシャツはどこか病的だ。

と、不意に思い出した。私は自分の遺影を残すために、この場所を訪れたのだ。老い先みじかいやもめにとって、身辺の整理は重要なことだ。葬式の手配にしてもひとさまの手を煩わせたくはない。私にとって遺影は、特に必要なものだ。何故なら、私はこれまで一度も写真を撮られたことがなかったのだから。

貧しかった両親に、子どもだった私を撮る余裕はなかった。初めてカメラを前にしたのは、私が五才の誕生日を迎えた年だった。おそらく七五三か何かだったのだろう、両親は近所の写真室に私を連れていった。レンズを向けられた瞬間、言いようのない恐怖に襲われた。私は必死に撮影を拒んだ。当時を思えば相当な無理をして写真室を訪れたであろう両親は、聞き分けのない子どもを前に途方に暮れていた。見かねたカメラマンが私の前にしゃがんで、ゆっくりと言い含めた。「なにも積極的に撮られる必要なんてないんだよ。何もしなくたって、写真は君のすべてを写し出す。そのままジッとしていれば大丈夫だ」

励ましのつもりだったのかもしれないが、完全に逆効果だ。写真に撮られたが最後、すべてを引きずり出されてしまう……漠然とした恐怖は、その言葉によって明確な理由となった。私は泣きわめいた。けっきょくその日、私は写真を撮られることなく家に帰った。

その後も学校での入学式、卒業式、あらゆるイベントの数々を逃げ続けた。数少ない友だちとの別れにも、もっぱら私は撮影する側に回った。大学を卒業して社会人となり、結婚して妻を娶った。それでも尚、私は写真の中におさめられることはなかった。

三時を報せる鐘が、何処かで鳴り始めた。相変わらず誰も戻ってこない。落ち着かず、室内を歩く。中央に鎮座するカメラを前にすると、余計に落ち着かない気持ちになった。

「すいません――」と、不意にカーテンの向こうから声が聞こえた。その隙間から、若い女性が顔を覗かせた。「写真を一枚、お願いしたいんですけど」

「いや……」咄嗟のことに、言葉に詰まる。どうやら私を写真室の者と勘違いしているらしい。私もここに用があって訪れたのだと、伝えようとした。しかし彼女はすぐにアトリエに入ってくると、羽織っていたベージュのコートを隅の鏡に掛け、そのまま髪や化粧の確認を始めた。それから私の方に振り返り、にこりと笑みを浮かべる。

「どうですか?」

「ええ……まぁ……」

口ごもりながも応える自分に呆れつつも、どうしても否定的な言葉は思いつかなかった。魅力的な女性だった。黒いスーツと白いブラウス。色合いだけを見れば私と変わらない。しかしその差はあまりにも歴然としていた。艶やかな長い髪、うっすらと上気した頬……若々しく美しい彼女は、生きる喜びに満ち溢れていた。

「面接用の写真が必要なんです」と、彼女は口を開いた。「そのへんの機械で簡単に作れるんですけど、やっぱりちゃんと撮ってもらった方が仕上がりに違いが出るでしょう?」

「ええ……そう、でしょうね」

またも間の抜けた返答を口にする私を横目に、彼女は薄いグレーの背景紙が吊り下げられた奥の壁際へと進む。何でもないことのようにカメラの前に立つ。

「ちょっと……ちょっと待ってくれないか!」自分の狼狽を隠すこともできず、私はあたふたと訴える。「君は、何か勘違いしているんじゃ――」

「あら、どこかヘンなところでも、あります?」
「いや、そういうことじゃなく……」
「ごめんなさい、ちょっと急いでるんです。これからオーディションに向かわないと」
「オーディション?」
「ええ、わたし、一人前の役者を目指してるんです」

思わず聞き返してしまったのは、おそらくむかし、私の友人が舞台に立っていたからだろう。役者という存在には、以前より興味があった。何度かその舞台を観て、新鮮な驚きを覚えた。舞台に立つ彼は、日ごろとはまるで別人だった。私は彼に訊いた。演じている間、本来の君はどこにいるのかと。彼は首を傾げた。

「さあ……どっかそのへんで居眠りでもしてるんじゃないかな?」

彼らの写真を見れば分かる。彼らはその役を演じている間、本来の自分を消し去ることができる。すべてを白日のもとに引きずり出す写真をもってしても、彼らの本質は写し出すことができない。私は、彼らに密かな憧れと共感を覚えていた。 

「おっと、いけない。いまは面接の写真をお願いするんだった」と、彼女は思い出したように笑う。「やっぱりですね、役者だけでは食べていけないので」

屈託のない笑みを浮かべる彼女を見て、私もまた微笑んだ。いつの間にか、私はカメラのうしろ側に立っていた。ファインダー越しに彼女を見つめる。あまりにも自然で、あまりにも馴染み深い眺め……自分の行動に驚きつつも、シャッターを押した時にはもう、すべてを理解していた。それこそストロボの閃光のごとく、鮮やかに記憶が蘇った。

そうだ、この写真室は誰のものでもない。私のものだ。私が三十年以上も前に立ち上げたアトリエだ。写真を撮られることが嫌いだった私は、写真を撮る側に回った。その場所に立っていれば、誰も私を写真におさめようとはしなかったから……。

とはいえここを訪れるのは、随分と久しぶりのことだ。数ヶ月前、私はこの写真室で倒れた。意識を失ったままに病院に運ばれ、そのまま入院生活を余儀なくされた。その間、誰もここを訪ねる者はなかったのだろう。部屋の照明が灯っていたのは、私を運び出した誰かが消し忘れたのだろう。長い寝たきりの生活は、頭の回転を鈍らせた。記憶力が欠落し始めたのも、それからのことだ。そして、私はこの場所を忘れた。

目の前のカメラを見る。私をここに呼んだのは、オマエだったのか。これまで一度たりとも写真におさめられることのなかった男の最期を看取ってやろうと、病床の私に囁きかけたのか。私がこの世界に存在したという、唯一の証を残すために。

「どうしたんですか?」カメラの向こうで、彼女が首を傾げた。「泣いているんですか?」

「いや、何でもありません」私は応える。「もう一枚、撮っておきましょう」

そして最後にひとつ、彼女に願い出てみようと思う。急いでいるのは分かるが、それでも最後にひとつだけ、この老いた男の願いを叶えてもらいたい。私に代わって、このシャッターを押してもらいたい。そこに写し出される男の姿を、残してもらいたい。

ストロボの閃光が、室内を満たした。

                                               

                              【了】

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