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掌編  案山子  高北謙一郎

 

こんにちは。週に一度の掌編投稿です。今回の作品、個人的にはとても好きな物語。いつものように有料うが投げ銭設定。お楽しみいただければ幸いです。よろしくお願いします。



    【案山子】               高北謙一郎

ぼろぼろになったカーキ色の軍服に身を包み、彼は今日もその峠に立っていた。夏の強い陽射しを誰よりも近くで浴びながら、それでも汗ひとつかくこともなく眼下に広がる景色に目を光らせている。右手には銃身の長いライフル。弾はもう、すでに込められている。

深い森と緩やかに流れる大河、間歇的にこだまする獣たちの声、下界は生き物たちの気配で満ち溢れていた。それはまるで、ひとつの巨大な生命体を思わせた。濃密な緑は、彼が少しでも気を緩めたら一瞬にしてその長大な距離を縮め、枝葉を伸ばし襲い掛かってくるに違いない――彼は常にそんな緊張の中で立ち続けていた。

乾いた風が、青い空に浮かぶ雲を流している。熱帯を思わせるその眺めとは対照的に、峠の頂に湿度というものは感じられなかった。稀に雨が降ることもあったが、そのほとんどは遥か地上へと消えた。白茶けた土と石くれに、命の脈動はない。

彼が国境にあるこの峠の番人を務めるようになって、かれこれ十年近くなる。始めのころは三人の男たちが交代で番にあたっていたが、いつしかひとり消え、またひとりと消えた。新たな人材が送られてくることはなかった。それでも彼は番を続けた。来る日も来る日も、そこに立ち続けた。ひとりである以上、立ち続けるよりなかった。そして眠るということ、食べるということ、あらゆる人間としての機能は失われた。

いうなれば、今の彼は案山子そのものだった。

それでも、わずかながらの記憶はまだ残されていた。時おり夢でも見るかのように、彼は昔のことを思い出した。研究施設での実験の日々、政府から与えられた土地、仲間とともに耕した大地……誰もがその成功を疑わなかった。これによって、人類は自然界に左右されることなく安定した食糧を手にできるようになると、そう信じていた。

しかしそれは、禁断の果実でもあった。人間たちがむやみに創り出していいものではなかった。鳥や獣、夥しいまでの昆虫たち……自然界は彼らの土地を、その研究を、徹底的に踏みにじった。プロジェクトは、あっけなく暗礁に乗りあげた。そしてその後に続く悲劇。仲間たちの離散。不信と憎悪。すべては中止となり、職務は剥奪された。それはまさに楽園からの追放。最愛の妻を残し、絶望の中で志願した峠の番、怒りを胸に登った険しい山道……今でもその時のことを思うと、ライフルを握る手がかすかに震える。

不意に、背後に気配を感じた。何者かが、ゆっくりとこちらに近づいてくる。慎重な歩みと乱れた息遣い。誰だろう? 敵ではない。彼が背にしているのは守るべき祖国だ。ならば、代わりとなる番人がやってきたのか? しかし、彼が限られた情報の中で感知しているそれは、男のものではなかった。木々の連なりから視線を逸らすことなく、それでも相手との距離を推し量る。すでに数メートル……いや、数歩といったところか。

そっと、背中にやわらかな温もり。静かに、誰かの頬が押し当てられる。そして前方にまわされた細い腕。華奢な指先が彼の胸の下で組み合わされた。

身体の奥深く、ずっとずっと深い場所が、激しく揺さぶられた。

その温もりを、その指先を、彼は憶えていた。もう二度と逢うことは叶わないと諦めていた、愛する妻が今、彼を抱きしめているのだ。記憶の中の彼女を思い出す。同じ研究室で働いていた。いつもメガネをかけていた。長く美しい髪をうしろで結わいていた。白い肌は屋外での作業に向いていなかったのだろう、たえず照りつける陽射しに悩まされていた。それでも文句ひとつ言うこともなく、彼とともにプロジェクトの成功を信じていた。

しかし激しく揺れ動く感情とは裏腹に、彼の身体はぴくりとも動かなかった。長い歳月を不動のままに過ごしたその肉体は、妻の抱擁に応えることはできなかった。彼はただ前方を向いたままに立ち続けた。言葉さえ、発することもできなかった。

「遅くなりました」と、やがて妻が口を開いた。「今日まで、本当にご苦労さまでした」

やはり、代わりとなる番人がやってきたのだろうか。これまでの労をねぎらう妻の言葉を反芻する。しかし、今ここに他の人間を感じることはない。どういうことだ?

「私たちが大地に蒔いた種は、やはり自然界から排除されてしまいました」妻は彼の背中に頭を預けたままに言った。「私たちが育てあげようとしたもの、それは私たちにとっては魅力的なものでしたが、他の生き物たちにとっては忌まわしいものでしかなかったようです。もっとも、それをあなたに言うのは無意味なことかもしれませんが……」

そうだ、そんなことは判っていた。彼は身動きできないままに思う。自分たちが蒔いた種が、あるいはこれまでの自然界の法則を破壊してしまうのではないかということは、充分に承知していた。それでもその種を育てることが、これから先の人類にとって有益なものであることもまた、事実だった。だからこそ彼はプロジェクトに参加したのだ。だからこそ、その開発に力を注いできたのだ。たとえ度重なる襲撃に遭おうとも、屈するわけにはいかなかった。敵の監視を続け、破壊されたものを復元する。そして再びプロジェクトを始動させる――その一念で彼は番人の務めを続けてきたのだ。

「もう、あのプロジェクトが再開されることはないでしょう」と、しかし妻は告げた。「あなたが家を出てから、すぐに国土は壊滅的な被害を受けました。この国ばかりではありません。世界中のあらゆる土地が襲撃されました。ええ、当たり前ですが、敵はこの峠の向こう側だけでなく、ありとあらゆる場所にいたのです。ひとびとは逃げ惑い、追い詰められていきました。そして私たちは……ひとびとは、自然界から追放されたのです。それが私たちの試みに対する彼らからの回答でした。自然はもう、なにも与えてはくれない。私たちは今、限られた場所でしか生きていくことはできないのです。小さなシェルターの中で、身を寄せ合うようにしか」

わが国ばかりではなく、人類そのものが危機に瀕しているというのか。彼は愕然とするよりなかった。ずっと守り続けていると思っていたものは、すでに失われていた。にわかには信じがたい。受け入れがたい。けれどそれを否定しようにも、相変わらず口は動かず、身体もまた思うに任せない。試みに、ライフルを持つ右手の指先に力を込める。しかしあろうことかその指先は彼の意思に従わなかった。

それでも尚、彼は一縷の望みを繋ごうとしていた。人間たちは今、小さなシェルターで暮らしているのだと、妻は言った。ならばそこで再びプロジェクトを始動すればいいのではないか。人間たちだけで暮らしていける場所があるのならば、自然との共存など必要ない。そこでなら、誰に邪魔をされることもない。そうだ、今すぐ自分は国に戻り、頓挫したままになっているプロジェクトを進めなければ。結局それこそが窮地に立たされているという人類を救うことになるのだから。もしかすると、妻はそのためにこそ自分を呼び戻しにきたのではないか? そうに違いない。

しかし彼のそんな思いを打ち消すかのように、妻は静かな口調で言った。
「もうすぐ、私はここを離れなければなりません。この世界はもう、ひとが暮らすことを許してはくれないのです。これ以上ここに私が身を晒していたら、彼らは私を排除しようとするでしょう。彼らは、自然界に於ける人間たちの存在を認めてはいないのですから」

ならば自分はどうだというのだ? ずっとここに立ち続けている自分は? 彼には妻の言っていることが判らなかった。しかし彼の思考が追いつくよりも先に、妻は続けた。

「私は今日、あなたにお別れを言うためにここを訪れました。今も言ったように、私がここにいることは許されません。でも、あなたは違う。あなたはここにいられる。あなたは彼らから認められている。なぜならもう、あなたは峠の向こう側のひと……森の一部なのですから。あなたはずっとここに立ちながら、いつしか森と同化してしまったのですから」

さようならと言って、妻は去っていった。彼は深い哀しみとともに思う。せめて自分も、彼女にこれまでの感謝と別れを告げたかった。しかし、それすらも出来なかった。

終わったんだ。自らに言い聞かす。ふうと息を吐き出すように、彼は残されていた人間としての記憶を手放した。ゆっくりとまぶたを閉ざす。最期の瞬間、彼は大空を舞う一羽の鳥を見た。それはしなやかな翼で優雅に上空を旋回すると、今は一本の樹木と化した峠の番人の肩に、音もなく舞い降りた。

                                                   

                             《了》
                     

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