システム化された市場、商店における個人主義の矛盾、あるいはジレンマ

現代の日本社会は、市場がある程度システム化されており、
社会や市場に出るとき、大きな事業を動かすためのいわゆる歯車の一部として見る、動くことになるのは一般的である。

例えば外に出て買い物をするというとき、
スーパー、コンビニ、ホームセンターへ行き買い物をする。
どこへ行っても同じものが並んでいて、大きな資本でチェーン展開されてる会社では、
作業をいくらかマニュアル化して誰でもできる、トップダウン式に命令が下され、個人というものがほとんど必要とされない。

そして実際、買い物客である私たちは、
店員を一個人ではなく、買い物における店舗の付属品程度にしか考えない傾向になり、下手に定員に顔を覚えられることを嫌う。

店員はあくまで市場における一過性の誰とも知らない人であり、
これから幾度となく繰り返される、与える与えられるという人間関係を恒常的に持つための存在として認識していない。
(通常の人間関係は何か貰ったら今度返さないといけないという心理が働くが、市場の論理はその場でのみ成立するので後にまで続かない)

現代における商店とはほぼ個人ではなく、大きな企業におけるチェーン店である。
個人店ではなく、チェーン店というものは基本的に純粋に利益、利害のみを追求するように効率化、システム化されているので、
購入するものそれ自体が目的であって、
相手が誰であるか、知り合いであるかそうでないかなどの余計な条件というのは、逆になるべく排除する方向に動く。


80年代90年代以降、海外からあるいは日本独自のチェーン店が増えてきてその傾向が特に強くなり、
商店というのは今まで以上に、物品の交換それのみの場として純粋化されてきている。

現代に生まれた世代において、チェーン店というその商店が一般的であるので、
他人を意識せず買い物のみをする純粋な場として商店を利用する傾向になりやすいと考えられる。
なので個人を主張される個人店というのは、
人間関係性に一歩足を踏み入れられるという点において、敬遠されることが多少あると思われる。

しかし、そういったシステム化された社会というハードがそろっている社会で、
現代人というのは逆にそれに対する反発からか、個人主義というものが叫ばれる。
その結果


商店や社会の内側として働くとき、歯車として動くのではなく私は一個人であると自分自身を主張する。
逆に商店、社会を外側から利用するとき、そこにいる人たちを目的を達するための歯車、無個人として使う。


これはうまく自分自身を使い分けているというより、
ハード側、システムがそうであるがゆえに、そういう環境で育ってきたがゆえに起こっている祖語であったり、
矛盾、自己認識不足であることのように思う。

自分自身の主張をするためには、他人の主張も尊重しなくてはならないわけだが、
チェーン店などの商店、社会、法人というシステムそのものは無個人であるので、
個人性において主張できる相手として攻撃対象にされ、
その無個人であると思っているシステム下にいる人間を攻撃対象にし、
またそれは同時にシステム内で働く自分自身が攻撃対象にされるという危険性をはらんでいる。


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