哲学的な思考の備忘録 その六 批判からの

言語を駆使して理解する哲学や学問といったものが、
言語を使っているという事によって、
一つの解釈、一つの限定的な考えにしかならないという事に縛られてしまう、という事は言語を理解する人間にとって全く普通の事であって、

全く普通の事であるから、前提として正に在るという事によって
逆に気付くという事がほとんど不可能になっています。

なぜなら反復のようになりますが、
それによってしか頭で理解するという事が不可能で、
それを頼りに考えるという行為が行われるからで、
それなしで伝えることができないからです。

なので、言語による会話にしろ学問にしろ、
それなしでは存在しえず、
それなしでは理解しえず、
それに頼っているから成立している、という事です。

それに頼って成立しているために、またこんにちの社会というものが成立しているわけで、
言語に対する信頼はほぼ絶対のものであって、
その言語自身を揺るがす説というのは、それに頼っている層にとって認めがたいものがあると思います。

一元的な言語世界を理解するというのは多くの場合簡単で、その世界において「正しい」と思う事はいくらでもあり得ます。
またその「正しさ」は自分を、他人を納得させるに値することにより自信にもなるでしょう。

こうすべきだ、こうした方が絶対良い、あなたは間違っていてこちらが正しい、なぜならこうするとこうなる。

しかしこういったことは結局言語世界におけるある条件下でのことであって、すべての事に当てはまるという事はほとんどありません。


「格物致知誠意正心、修身斉家治国平天下」

という言葉があります、意味はここでは詳しくは触れませんが、
この言葉は正しいように思えますが、現実的に言って非常に難しい言葉とも言えます。

一人で生きるのと、家族で生きるのは違います。
一人より大きな家族で生きるためには、自身のやりたいことなど抑えなくてはなりません。
そして家族より大きな国のためには、家族を犠牲にしなくてはならないかもしれません。
世界平和のために、国の意見を曲げなければならないかもしれません。

内田樹氏が何かの本で書いていましたが、
「大きな善のために小さな犠牲(悪だったか?)はいとわないというのは良くない」というようなことを書いていました。

しかし現実的に言って、
大きなものを見れば見るほど、小さなものは見過ごされ、
小さなものばかり見ていると、大きなものが安定しない。

植物の例で言うと、最高においしい実を作ろうと頑張っていると、木が枯れてしまうかもしれません。
反対に木を育てることに注力すると、おいしい実ができないかもしれません。

マイノリティの意見のみ取っていてはダメですし、マジョリティの意見のみ取っていてもダメとなるでしょう。

人間がより良く生きるために、さらに木を伐り土地を広げ、、、(ry
いや地球のために、他の動物たちのためにそもそも人間なんて、、、(ry

言語によってああともこうとも言え、またああともこうとも取れる。
一つの方向から語るという言語の特性によって、その線上は無問題でも、実際のところは問題ばかりになってしまうのです。

問題が解決するどころか、解ったような気になることで、さらに多くの問題を増やすことになりかねません。

つまるところ、じゃあどうしろって話になるわけですが、
そもそも言語がそうであるという事を理解して使うという事しか言えないでしょう。

禅の考え方というのは(何度も言いますが禅はそこまで詳しくありません)考えるのではなく、「行動する」というところに重きを置いて生活をします。
なぜそうするのか、なぜそうなっているのか?というようなすぐに思い浮かぶ一般的な疑問を問わず、とにかく行動することによって生きていく。

「行動する」という事においては、どちらを取るべきかという時間は多くの場合ありません。
よく言われる「今」というものでしょうか。
もちろん後から考えてああすべきだった、この状況になったらこうしようなどと考えることはできても、「行動する」という正にその時、というものは一つの論理ではなく、色々なことが重なって行われます。

そうするつもりはなかったのに、そうしてしまった、
そうしようと思っていたのに、全然できなかった。良くあることです。

論理ばかり使っていると、その一見の正しさから、自身の論理的正確性、確証性でもって正に自分自身もそうであるというように錯覚しやすく、現実世界に適応させたときに、その通りに行かないという事の方が多いでしょう。

こんなことをつらつら書いている時点で私自身がそうであるという証拠でもありますが、
そうであるから、「考える」こと以上に「行動する」という事が重要なのであって、こうやって書いていくという行為が重要なのであって、

ヴァーチャルな言語のやり取りのみでなく、実際に行動することによって多元的な世界とすり合わせしていくことが、より最善を求める場合必要な事なんではないでしょうか。

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