哲学的な思考の備忘録 運動について2

運動について問題なわけですが、
意識の使い方が少なからず問題であるなら、そもそも意識とは何ぞやという事です。

意識というのも言語よろしくすでにあるものなので、それがなんであるかという事を考えるのは非常に難しいです。

しかしまぁここでは意識というのは、
どこに注力しているか、注意しているか
という程度の考え方で使っています。

例えば右手の指先に意識を向けます。
足の裏に意識を向けます。
背中に意識を向けます。
というように、どこかの感覚に集中して、感じる程度です。

意識を使い注意するといった場合、感覚が大きくかかわっていると思います。
肉体のどこかに注意すると、皮膚のあるいは筋肉の触覚や特に目で見えるところなら視覚も影響します。
ご飯を食べていれば、視覚からの嗅覚、味覚、口内の触覚です。
話をするなら聴覚です。

しかし運動をするといった場合、先にも書いたように触覚一つではなく色々な感覚が混じっています。

感覚は一般的に言って閉じているものではなく、常に使われているもので、その感覚を何割、何割というような感じで使っているように思えます。

目を使って何かを見るときは視覚多め、で音に疎くなるかもしれません。
音に集中しているときは、聴覚多めで、その他の感覚に疎くなるかもしれません。

ですがこういった感覚に集中するといった場合、自ら意識してそこに注意を向けているのでしょうか?
口に何か入れる場合、嗅覚、味覚が優位になるよう意識するからそうなるのでしょうか?
何かにぶつかったとき、後から意識して触覚に注意するでしょうか?
こういう多くの場合、自ら意識をそちらに向けるのではなく、自然とそちらに注意、意識を向けます。
それは自然的な、生物的な本能にとって重要な事であって、
味覚に集中すべき時、触覚に集中すべき時、視覚に集中すべき時、
生存にとって有利な選択を、いわゆる「無意識」でもってしているわけです。

しかし少し考えてみるとそれに反する行動というのは人間の場合、多く考えることができます。

何か考え事をしながらご飯を食べたりして、あまり味わわずに食べる。
なにか危険信号をともなう音が流れているときに、何かを見ていて全く聞こえない。
逆に何かを聴いていて、全く見ていない。

これはよく考えると人間が本能的に、本質的に使う意識の仕方を「無意識」と呼んで、
そうではなく自らが「意識する」といった使い方を、呼び方をする場合、
意識するという行動はどちらかというと、生物的にすこし外れた行為を指し示すのではないのかと思われます。

つまり「意識する」という行為をすることによって、本来まんべんなく自然に注力、注意されていたものが、自らでもってコントロールすることによって、注意に偏りが生じているという事が起こっているのではないか?
ある種、生物としての逸脱行為とも考えられるのではないでしょうか?


とまあそれは置いといて、前回、鉛筆の使い方で鉛筆の先に意識がいき、鉛筆を持っている右手の使い方自体は省略されますと書きました。
この省略されている状態というのは、言い換えると「無意識」状態であると言えないこともありません。

無意識状態の積み重ねの先に意識して行動、運動しているのであって、外人の使えない箸の例を考えると、
もともと意識状態であった箸の使い方というのを、練習あるいは使用を重ねることによって無意識状態まで持っていった
という風に考えられます。

そういう風に考えていくと、何か運動にしろ楽器を弾くにしろ、
意識するという事が人間にとって普通の行為であるとするならば、
意識することそのものが重要なのではなく、むしろ無意識状態を作り出していくことが重要なのではないのかとも思えます。

無意識状態の段階をしっかり固めていくことで、その上の意識が自由自在に動かせるという事は、単純に考えて、まるで矛盾しているような論です。
つまり意識によって行動することによって無意識を作り出していく。

これは正に禅問答のようなもので、
「何も考えるなといわれて何も考えないようにしよう」
と考えている時点ですでに考えてしまっている。
意識するなといわれれば、余計に意識するものです。
意識的に無意識状態にする、、、、、、。

ここで禅ではある種の解決方法を教えます。
それは例えば「呼吸に集中する」といったことです。
また「自然の音に耳を傾ける」といったことです。

(たぶんですが)これらが言いたいことは、
「呼吸」や「自然の音」に本当に集中しろといっているのではなく、意識的に別の感覚に意識を分散させることによって、一つの事に注力しすぎるなという事でしょう。
そうすることによって、偏りすぎていた意識を分散せることで、
そして更に一つしか使っていなかった行動の無意識状態ではなく、そのほかの行動における無意識状態も使う事で、無意識状態の幅を広げ安定させるという事ではないでしょうか。

話が少しそれましたが、意識することではなく無意識の幅を広げていくと考えたとき、ここで考えられる解決策というのは、
ここまでつらつらと文章を重ねて考えてきた運動についての解というのは実は正に単純明快な、
「運動する、あるいは行動する」
という事によって、意識しない状態、無意識の状態を作り出していくしかない。としか言いようがないのではないでしょうか。


よく分からなくなってきましたが続きます。

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