見出し画像

属性を得て世界が変わらなくても

御機嫌よう、日暮八日です。
お盆が過ぎても暑さが引くことがなく、寝苦しい日々が続いていますね。

皆さんは自分を明確に表す属性があれば自分の人生は楽になると思っていますか。

現代は個人に対するいろんなラベリングが存在します。例えば、ADHDやアスペルガー症候群などの発達障害やHSPなどです。インターネットではそういった属性を生かしたマーケティングを行う人やそれそのものをビジネス化したもの、そういった特性を持つ人のコミュニティーが多くあります。

それらを見て私はいつも思うのです。属性を得ることで本当に世界は変わるのだろうかと。私の答えはNOです。たとえ何かしらの属性が明確になったところで世界は優しくなどなってくれません。人生が楽になるなんてありません。

私は幼少期に病院で発達障害の診断を受けました。診断を得たことで私に待っていたのは、苦労と苦難の連続でした。欠けた0の部分を1に引き上げるための訓練やその訓練を行っていることへの偏見、人のできることのできない劣等感に苛まれる生活。
高校時代には自分がいわゆるHSPと呼ばれる特性を持っていることも発覚しました。

しかし、いくら属性を得ようとも私の根本的な苦痛はなくなることはありませんでした。属性があるのだから仕方ない。そう自分に言い聞かせても、つらいことはつらいのです。それを人にその属性を訴えようとも他人は他人です。同じ属性を持っていても、理解しあうことは難しい。ある日、世界が私に優しくなる、そんなことはありませんでした。

小学生のころのことです。私は学校を時折、休んで発達障害のための学級に通い訓練をしていました。しかし、クラスメイトには学校を休んで遊んでいるように見えていたようでした。そのため、ズル休みをしているとよくバカにされたことを覚えています。障害持ちとバカにされもしました。

中学生に上がるとき、私は通常の学級に進学できるほどには特性をコントロールできており、特別学級の必要はないと診断されました。しかし、当時の担任の先生は2者面談や日頃の会話でも特別学級に行くことを勧められました。その時よく言われたのは「あなたはこのクラスにいなくても大丈夫」でした。おそらくそれは、無理をしなくても良い、という意味なのかもしれません。しかし私には発達障害の人間は通常、お荷物だといわれているように感じて苦しかったことを覚えています。

高校生になると、HSPだと分かり、その驚きを母に告げました。母はだから何だというのかと、一蹴します。当時の周りは、「それで」の一言で終わりました。

きっと、他の属性を得たとして人は優しくしてはくれません。

インターネットでは精神科や心療内科、カウセリングに行ったが、診断や属性をもらえなかったと嘆く人がいます。彼らは勘違いをしています。なぜなら、属性が付いたところで属性がついて事での苦しみと苦難、そして何より、その苦しみそのものは絶えずあなたの中に居続けるからです。

ただ属性が欲しいだけだとしたら、ただ属性を得るよりも大きな苦難が待ち受けるでしょう。属性によって他者からの優しさを期待するのならば、その期待はおそらく裏切られます。あなたが属性と生涯を通して向き合わなければならなくなるだけです。望まない試練は悪夢の始まりです。

しかし、それでも自分を知りたい、自分と向き合いたいと思うならば、属性はあなたの心を自由に導くでしょう。楽にはしてはくれません。でもあなたは自由になれます。属性と向き合ったことによって得られる自己理解は自分が分からないという不安をかき消し、思考をクリアにしてくれる事でしょう。

苦悩し続けた十数年は私にとって自由への切符だったからです。おかげで大切な友人や自分のやりたいことをやるための未来を考えられるようになったからです。

属性と向き合うことで理解しあえなくても分ちあえる仲間ができることでしょう。属性を知ることであなたは自分の特技を見つけられることでしょう。そこから、自分に向いている挑戦をすることもできます。

だから、どうか、世界が変わる努力を忘れませんように。世界は変わりません。でも自由になれますから。



いいなと思ったら応援しよう!