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『君の膵臓をたべたい』から学ぶ、日常の尊さ


2021年7月23日。

コロナ禍にも関わらず東京オリンピックの開会式が行われた今日、『君の膵臓をたべたい』が金曜ロードショーで放送された。

ご存知の方も多いと思うが『君の膵臓をたべたい』は、余命宣告をされたヒロインの山内桜良が残された時間を主人公の僕と過ごしていくという作品だ。
目を疑ってしまう程の作品名とは裏腹に、日常の大切さや愛情、優しさに溢れた物語となっている。

私が初めて原作を読んだ5年前にも反響があり、浜辺美波という名を轟かせた実写映画が公開された時や今回のアニメ映画が公開された時にも感動を呼んだ作品をコロナ禍の今に視聴すると、改めて日常の尊さに気づけるはずだ。

山内桜良の生き方

「家族は、私の発言一つ一つに過剰反応して、日常を取り繕うのに必死になってる。友達もきっと、知ったらそうなると思う。君だけが真実を知りながら、私と日常をやってくれてるから、私は君と遊ぶのが楽しいよ」

長くは生きられないということを知った桜良だったが、それを周りに伝えてしまうと、これまで通りの日常を過ごせないんじゃないかと考えてしまう。親友の恭子にも秘密を話さなかったくらい、桜良は何気ない日常を大切にしたかったんだと思う。

これは主観が入ってしまうのだが、幸せを感じる瞬間というのは、仲のいい人とのとりとめもない会話で笑い合う時や、ご飯を一緒に食べている時のような何気ない時間のことを指すんだと思う。

もちろん、誕生日の日にたくさんの人から祝われてワイワイする時間も幸せだし、旅行に行ってはしゃぐ瞬間にも幸せを感じる。

それでも、自然体で友達と接している瞬間という小さな幸せは言葉以上に心地良くて温かいものだ。

しかし、そんな日常を私たちはコロナによる外出制限やマスクの着用によって制限されるようになった。
当たり前の時間を失われたことで、日常の大切さということに気付かされた人も多いのではないだろうか。

マスクをつけないで沢山会話できた日々。
何の心配もなく、友達とご飯を食べれたこと。

このような何気ない日常の尊さを、桜良はすでに気づいていたのかもしれない。
だからこそ、彼女は秘密を話すことができないまま日常を過ごすことを選択したのではないだろうか。


病は体を破壊し、心を生成する


『君の膵臓をたべたい』でもコロナにも共通して言えることだが、皮肉なことに人は病によって隠れていた感情に気づいたり、大切にしていることに気づいたりするのではないだろうか。

「私が、本当は死ぬのがめちゃくちゃ怖いって言ったら、どうする?」

伝えたくても周りに言えない感情を抱きながら、彼女は生きていたのかもしれない。必死に自分を押し殺して、周りのことを考えて自身を取り繕う。でも、体は徐々に悲鳴をあげて、限られた時間を無意識に自覚してしまう。そうやって、自分が追い詰められた状況下で自分と向き合い続けるしかない瞬間に様々なことに気がつくことがある。

自分は何を大切にしたいんだろう。
自分はどんな風に過ごしたいのか。

追い詰められた状況で感じたことは、経験を伴った強い意志となって人前に現れるんだろう。

私たちも、コロナに罹患してないにせよ、自身の身に置かれた立場で沢山のことと向き合ってきた。
それはやはり、コロナで失われたことで気づけたことだと思う。
自分が感じた気持ちに経験が伴ったことは、これからその気持ちを忘れずに過ごしていこうという原動力へとなるのではないだろうか。


日常の尊さ

新型コロナウイルスの拡大によって私たちは日常を失った。しかし、それがきっかけで私たちは日常の大切さを再確認することができた。

友達と会えること、大きな声で笑い合えること。


そして『君の膵臓をたべたい』は教えてくれた。


今まで隣にいた人が隣にいることが当たり前じゃないということ。
何気ない日常が幸せだということ。


現在のようなコロナ禍だからこそ、身に染みて理解することができる。


当たり前に会える時間を大切に。
伝えたいことは話せる瞬間に伝える。


だって、一日の価値は全部一緒なんだから。


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