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ずれた時計

朝起きたら時計が止まっていた。壁にかかったアナログ時計。外はすっかり明るいのに、5:36という時間を指していた。正確にはラジオ電波の受信と調整だけがうまくいかなくなったらしく、替えの電池が手に入るまでしばらくは、そのずれのまま進んでいた。
それはすごく奇妙な感覚だった。
いつも壁の決まった場所にある、丸の中の二本の棒をみれば、起きる時間、出かける時間、寝る時間、何をすべきか教えてくれていた。それなのに、今になって示されている指標は正しくないのだと自分の脳に修正を求めるのは、何やら勝手なようで、わがままなようでおかしかった。

あるいは、自分がいままでいかに、時計に生かされている生活をしていたか、それに気づかされてなにやら恐ろしい気もした。お腹が空いたから食べるとか、眠たくなったから寝るというのでなしに、つまるところ、時計が命じるから食べる/寝る生活だった。
でもその時計を正しいとするなんて、自分の身体感覚以上に、時計という「世の中の標準」に従うなんて、なんとも皮肉な話ではないか。いかにもあくせくとした現代社会の風刺のようだ。身体感覚を置き去りにした、社会スケジュールに則った生活。ふと、ちょうど数日前にみた画家・山口晃のインタビューで語られていた「内発性」という言葉を(スケールは違うにせよ)、思い出した。

それは拡張していくと、夏目漱石が『私の個人主義』や『現代日本の開化』で語っていた自己本位のようなものでもあるかもしれない。「自分の鶴嘴をがちりと鉱脈に掘り当てたような」なにかを持って、それとともに進んでいく。「上滑りに滑って」行くことなしに、自分の足で、自分の身体感覚、価値基準で、歩いていく。

情報に溢れ、非常に強力な、世界の何人(なんびと)も逃れらない外圧が存在する今、どうやって自分の内発性を保ち、そしてその外圧と折り合いをつけていくのか、いや、そもそも自分はこんな時にも流れに突き立てられる、依って立てるような内発性を持ち合わせていたのだろうかと、再び元に戻った時計と暮らしながら、考えている。

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