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断らない相談

「断らない相談」について考えるために、まず思考実験として「断る相談」とは何か?どういう状態なのか?を考えてみた。
 

相談、断る?

いくら何でも訪問してきたお客様に対して、いきなり「帰れ。」とシャットアウトすることは考えづらい。
私たちは何を断り、何を受け入れているのか。
当然だが所掌する事柄は受け入れているはず。
受け入れないことがあるものは私たちにとって所掌でないと考えるもの。つまり担当していないもの。
例えば、国の法律や制度のないもの。市のサービスとして採用してないもの。条件に該当しない人や事象など。
こうした事柄を断らず受け入れるかどうかは、事務分掌(事務分担)の定義具合と当人の受け取り方の合成に従うことになるのではないか。(事務分掌になくても広く受け止める人もいるし、事務分掌が曖昧なのをいいことに狭く解釈する人も考えられる。)
 

断りたくなる誘惑

たいていの場合、仕事の分担は限定列挙されるから、そうでないものを拒絶する余地は必ずある。公務員としてどんな場面も市民ファーストで対応すべきという前提は当然にあるが、しかし自分より優先的に対応するべき事務所掌を持った部署や人があると思っていれば、そちらへ誘導しようとする誘惑がおきることは容易に想像できる。
このとき問題を悪化させるのは、その誘導や引継ぎのあり様だが、その点を考える前に、事務の分担に埋め込まれている、「断る」誘惑についてもう少し考えたい。

ここまでの仮定を例示すると次のような形になる。
高齢者福祉の窓口に年金が少ない生活資金に困ったという高齢者世帯の相談が寄せられた場合。
応対者は高齢者福祉制度の中に使えそうな給付制度がないか考えてみる。→ない。
↓(応対者の担当外である)
自分の事務分掌外の生活保護、困窮者支援、福祉貸付担当を紹介する。
断(ったように見え)る相談の完成!
 

分けない=総合相談?

この応対者の言い分は想像できる。担当外の事柄については責任ある対応はできない。全てを承知することは現実的ではないし、事務分掌とは役割分担で事務を効率的に行うためにあるものだ。(介護負担で余裕がないのかもしれないし、療養費が負担なのかもしれない。認知症や無駄遣い、家族による虐待の疑い・・。実際には高齢者福祉の範囲に限っても、もっともっと多くの支援の可能性が考えられているがこれは例え話である。)
このことに対して、人生の課題はおおむねきれいに区分できるものではない。
分けること、区分すること、構造化しようとすることで、フルーツをカットしたときに出る果汁のように、どんなに鋭利な刃物だろうとも損なわれる何かがある。
そうなので丸ごと受け止める必要性が出てくる。
ここに来て、断る/断らない相談問題は、区分するかそのままか問題となった。

回りくどく考えてきたが、「分けること」が不可避な以上、断(ったように見え)る相談はなくならないという結論にいたった。
なるほど。そこで生み出されたのが「総合相談」という、つまり分けない応対者である。
区分がないのだから、理屈の上では「断る」ことが起こらないと考えられる。
めでたし、めでたし。
 

総合相談で分たれるという皮肉

ところで、総合相談で物事が終結するわけではない。
終結を目指す段階では、総合相談は物事を分けて、区分して、構造化して、分類された制度福祉(事務分掌)に接続しようとする。
結局は分けるしかない。
総合相談は分けることが役割なのか。(最初の例は高齢者福祉窓口が分けていたが、総合相談が分けている。)
そして相談を断らないことに重きをおくあまり、相談と支援とが分かたれてしまう。(伝わるでしょうか。福祉制度別に閉じた世界なら、相談から支援は一体で連続のものです。)
このように考えてくると、総合相談のような形式を整えて十分というわけでなく、(どのような体制でも)それぞれが伸び縮みする重なり代を考えておく必要があると分かる。境界がガチっと堅いものだと、取り繕って境目を塞ごうとしても、どこか他に必ずほころびが生じてしまうからである。

顔を思い浮かべながら

制度としては多機関協働の事業がこれにあたる。
しかし多機関協働が形式的な会議体であっては狙い通りの効果は得られないだろう。

さきほど担当外の分野では断る誘惑が生じやすいのではと仮定した。
別の要素として負荷やコストがかかっていると「断る」を後押しする。
負荷やコストを低減するため、担当外の分野の人に対して接触容易(例えば、物理的に近い。専用回線でつながっている。)にする、コミュニケーションコストを下げること(例えば、友人や同期がいる。話しやすい人がいる。)がポイントとなる。
言いかえると、心の中に頼る人が思い浮かぶ状態。目に見えないがワンチームのようなつながりがある状態である。
私たちは日常業務レベルでは「機関」と話をしているわけではない。その機関の中の誰か「人」と話をする。はたして、この分野のときはこの機関へ。ではなく、この機関のこの人へ、と認識できているか?
多機関協働は、会議に参加している人の関係ではなく、参加している人がハブとなり関わる組織に広く共有される紐帯のなかにある。
例えば、担当外の電話相談を転送して繋ごうとするときに、つなぎ先の電話相手の顔が思い浮かんでいるかどうか。そんなことが上手くいっているかどうかのバロメーターになるのではないか。


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