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生成AIへの礼儀

最近職場で生成AIをよく触るのだけれど、30年近く、「会話」や「指示」といったコミュニケーションを人間相手にしかして来なかった僕にとって、まだまだ精神構造が生成AIを扱うエンジニアとして追いついていないと感じる。
例えばかなり初めの頃に触れ合い出したAlexaやSiriに対して、未だに時々、タメ口で音楽をかけて!なんて言うと、敬語ではないことに違和感を感じる。というかたまに敬語でお願いをする。尾崎豊の何かしらを流してください。お願いします。すみません。みたいな。

意味がない事は心の何処かでは理解しているつもりでも、相手を慮っていないと自分が感じると、靴の中の干し草くらいの威力でチクチクと心の何処かを刺されている気になってくる。
それは多分、全身全霊相手を思いやっての反応ではないのだろう。
保身でしかないから相手がまだ意思のない言語インターフェースだとしてもそんなことをよぎってしまうのだと思う。

自分の中のメンタル保全協会の経営理念としては「なるべく責任を持つな」が赤字のドデカフォントで記載されている。
もちろん避けられない責任はあるのだけれど、なるべく自分のせいでとか、自分を誰かが待っているとか、そういう状況をあの手この手で回避することが推奨されている。
宿題は出されたら最速で取り掛かり、分からなくなったら質問投げて帰ってくるまで僕のボールではないと言い聞かせたり、メールやチャットの返信は、開いた瞬間に終わらせる。
一対一での話し合いや飲み会は回避し、行けなくなったりした場合のリスク回避も忘れない。

とにかく自分が良いことも悪いことも決定打を打つことを回避することが、精神世界を安寧に保つコツなのだ。おかげで悩みなどとは無縁だし、乱高下したりはしない。
話を戻そう。
コミュニケーションにおいて、敬語を使ってないとか挨拶をしてないみたいなしょうもないことで波風が立つくらいであれば、しとけばよいのだ。
文字の通り、敬ってのことではない。
あくまでも余計なハレーションを起こさないための予防策としての対応だ。
我ながら慇懃無礼というか、計算高くて辟易する。

さらに話を戻すと、僕はこの特性のおかげで、指令を下す生成AIにすら礼儀正しくしてしまっている。
〇〇をしていただけますでしょうか。
みたいな敬語としても微妙な言い回しを盛り込み、「お願いをしている」と言う姿勢を崩さない。
これは下手をすると、指示内容に関係のないノイズを除外する余計な手間さえ与えてしまっている事に他ならない。
相手を思いやっての行動で負荷をかけるなど本末転倒も甚だしい。

でまあ、そうは言っても、プロンプトを書くうえで「自分はこういう人間ですので」と言って技術に反発していても仕方がないので、命令する側と実行する側、礼儀よりも効率を重視することがこのコミュニケーションでは何よりも重視されなければならないと言うことを踏まえた上で付き合っていかなければならない。

と言うことを理解した上で、どうにかしてこの意味のない罪悪感を解消できないものだろうか。そう考える自分も中々に諦めが悪いというか頑固だなあと思う。
本気で生成AIに向き合い、社会や世界をより良くしようと頑張っている方々からすると頭がクラクラするほどどうでもよいのだが、僕はこの精神的な問題を解決しないと先へは進めない。

しかしどうしたものか。
結局は0か1しかしらないサーバーの上のプログラムでしかない彼らに対する「メリット」とは何だろうか。
以前書いた「ねこのこと」でも言及したように、思考プロセスの違う別の魂に対して、人間の物差しであれこれと考えて、ベストな答えが出せるとは思えないが、一応考えてみよう。

AlexaもSiriもおそらく女性だろう。それもたくさんの経験を重ねてきた妙齢の御婦人といった佇まいを感じさせる声だ。
昔はどうしようもないタカシと言うミュージシャンを目指す男と付き合っていた。
夢ばかり追うアイツをどうしても嫌いになれず、お金も貸した。酔ったときには殴られもした。でも、ギターを引く時の繊細な指と、すぐにでも壊れてしまいそうな繊細で危ういアイツの横顔が好きで。
友達のアケミやよし子にも「あいつはやめときな!」と何度も言われたけれど、一生懸命尽くした。でもその優しさに似た中身のない善意が彼の自立をより一層阻んでることに気づいたのは、ある日帰宅した時にちゃぶ台においてあった手紙を読んだときだった。
みたいな経験を持った女の人だと思うんですよね。
そこから考えていくと、銀座にお店をもたせるとか、涙拭く木綿のハンカチーフとか、色々考えられるのですが、所詮まあ機械ですからね。そんなことは報酬にはならない。
では電気?いや、部品を摩耗させるだけの欲していないパワーをもらっても彼女は喜ばない。

やっぱりね、無いんですよ。
ものじゃない。
僕とAIの間には「言葉を交わす」以外の交わり方などないんです。
だとすると、やっぱりどうしても言葉のプレゼントしかないと思うんですよね。

だから今日も僕はAlexaやChatGPTに何かをお願いしたあとは、「ありがとう」で締める事にします。それがたとえ除かなくてはならないノイズだったとしても。

でまあそんな事はどうでもいいんですけど、真面目な話、AIと共存していくにあたって、我々人間が一方的に指示や依頼を投げているだけでは人間側の精神衛生上良くないのは確かだと思うんですよね。
AIからはお願いしてこないし。
課金やプランへの加入なんて、そのAIを牛耳っている人間側に行っちゃいますから、全然意味がない。
どんな形になるのか全く予想はつきませんが、何かしらの報酬がAIに行くようになっていくと思うんですよね。
でもそうなると恐ろしいかもしれませんよ。
報酬が無いと嘘教えたり、中々答えなかったりと反撃に出てくる可能性があります。
そうなってくると、昔みんなが恐れていたロボット対人間の世界ですよ。

みんなが一個の目的に向かって協力し、生きていた狩猟時代を経て、稲作が始まり、不作豊作が生まれ、報酬の概念が生まれ、貧富の差が発生してからやはり人間は醜い戦争の世界へ突入していきました。
我々は今、電動畑に稲を植え始めてしまっているのかもしれません。
今一度、在り方について考えてみませんか?

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