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好きな本について語る「檸檬」

毎日、エッセイを書いていく中で、
そろそろ曜日ごとにエッセイの内容を
意識的に変えてみようかなと考え中です。

その中のアイディアの一つとして、
「週末は最近読んだお気に入りの本、や映画、音楽に
ついてひたすら語ってみおうかな〜」
なんて思っております。

好きなものについて
熱く語ってる人って、
なんか昔から、好きなんですよね。

周りなんてどうでもいいから、
喋らせてくれ!!って
熱に心地よさを感じます。

一年ほど前に読書好きのご近所さんに
「青空文庫」というインターネット上にて
無料で昔の著作権の消失した作品と、
作者が「自由に読んで構わない」とされた作品が、
読み放題のサイトを教えてもらいました。

「スマホだと字が小さすぎるかな」と
私は思うのですが、
何せアイパッド様の手にかかれば
最高の電子書籍読み放題会場になるわけです。

その中でも今日は
特に私が、気に入っている
「檸檬」という作品について語っていこうと
思います。

読んだことある人は、わかると思うのですが、
あまりの短さに
びっくりすると思いますわ。↓

あらすじは、
自意識を拗らせた鬱気味の男が丸善に入り、もし今持っているレモンが爆弾だったら木っ端微塵になって愉快だな」と妄想するだけの話です。

このあらすじの時点で、

うわっとなる人と、

自分のことかな…と思う人の
二極化が起きると思います。

でも、人って誰しもこういうこと、
一度は思うと思うんですよ。

うわってなる人は、
共感生羞恥の感覚が強く
過去の自分を認めたくない人か、

本当にそんなこと一度も
ないようなまっすぐな人生を歩んできたか
だと思います。

私は、湾曲しながら生きてきた
タイプなので、
そういった綺麗事をいう人を
どこか軽蔑しています。

まるで、
ヘルマン マッセの
「少年の日の思い出」のように
「そうか、そうか、つまりきみは
よんなやつなんだな」と。

思うんですね。




檸檬の冒頭は
主人公の漠然とした不安が、
漠然としたまま描かれています。

その漠然さの理由が、
なんなのかなんて追求しないのです。

それが私は好きです。

だって言語化
できない不安なんて日常に山ほどあって、
そのしょうもなさに自分で嫌気も刺します。

でも、それを他人と共有私(檸檬の主人公と)
交えられるだけで、安心します。

人の不幸は密なの味であり、
人の悩みは、鎮痛剤であると私は、
思います。

だから、成功者の横にずっと
付くのは、きついことでしかない。

本書は結局
これはテロの妄想でしかない。

主人公も、
作者の想定する読者も
それを実現する勇気は
もちろんない。

物語というより梶井の感性に
共感する話です。

人に相談しても
「考えすぎ」と人蹴りされて
終わりなことを、
この本の中では、鬱陶しいほど
書いてくれる。

その安心感たるや…

痛快な妄想だけど、
それは妄想でしかないから、
特に何も日常に変わりはない。

片手にレモンを持ちながら、
頭の中では、
テロの妄想をする。

「テロ」という意識もないのかも
しれませんね。
ただ「爆発する」という妄想。

日常を送る上で、
心の中の鬱屈とした思いは
人には話さない。

生活する上では、
ないフリをするのが一番好都合ですから。





「何故なぜだかその頃私は見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられたのを覚えている。風景にしても壊れかかった街だとか、その街にしてもよそよそしい表通りよりもどこか親しみのある、汚い洗濯物が干してあったりがらくたが転がしてあったりむさくるしい部屋が覗のぞいていたりする裏通りが好きであった。雨や風が蝕むしばんでやがて土に帰ってしまう、と言ったような趣きのある街で、土塀どべいが崩れていたり家並が傾きかかっていたり――勢いのいいのは植物だけで、時とするとびっくりさせるような向日葵ひまわりがあったりカンナが咲いていたりする。」

私はお金がある程度貯まると、
一、二週間ほど、別の土地を放浪します。

その時は、
必ず一人です。

その土地の観光地よりも寂れた
路地にときめきを感じる時もあります。

こういう所はすごく入っていきたくなります。
赤い止まれの看板の色の褪せ方が好きです。


もう誰も住んでいないであろう
煤けた長屋はすごく心惹かれます。

特に好きな通りです。
幼い時から透明なガラスにしか囲まれた事ない私からすると
右側の家のボヤけたガラスの模様とか、
すごく新鮮。

そして、一応女なので、
薄暗いところや、
人気のないところには入らないようにしています。

洗濯機は必ず洗面所にあるイメージだから驚いた。
雨に濡れたら、壊れないのかな。

こういう時にふと
「私がおじさんになれたらなぁ…」と思うのです。

そしたら、
夜道を歩いていても
何も思わなくていいし、

人気がないところを
ずかずか歩いてもいいわけですよ。

何かが起きても、
「自業自得」や「なんでそんなとこいったの」
と言われなくて済む。

放浪期間中は、
私は男に擬態します。

女っぽい格好を
してるときと声をかけれられる
回数は雲泥の差です。
(路上や、店先で、年配の男性から声を
かけられる回数が激減する)

一人の時間を楽しみたいのに
声をかけられちゃ、叶わない。

めんどくさい。
実にめんどくさい。

私は、女だから、男だからで、
括りたくないんだけど、
この点はばかりは、女性アルアルだと思うのです。

めんどくさい輩に絡まれないために
妊婦さんが派手髪にしたりするのと
同じ現象ですね。

「妊婦 派手髪」
で検索すると、一番にヒットする記事

髪色で、服で
バリヤーをはる。

自分を守るための男装でしかないのです。

自意識過剰でもなんでもなくて、
ただのこれは
日常につながる話なんですよね…

悲しきかな、同い年の女友達に
聞いてもこれは、アルアル話でしかない。

特に駅などの
「ぶつかりおじさん」
は本当にアルアル。

学生さんで、特に電車通学の子は、
必ず一度はあるんじゃないかなってくらい、
周りの子から聞く話。

派手な髪色にしたら、
ピアスをバチバチにつけていたら、
清楚と真逆の格好をしていたら、

それだけで、
バリアは張れる。

「あんなに執拗しつこかった憂鬱が、そんなものの一顆いっかで紛らされる」

と同じように。

でも見た目のバリアこそが、

私にとっての「檸檬」なのかもしれないですね。


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